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第3章 初めての第三者医業継承

1992(平成4)年、総合メディカルは社員数120名にまで成長していた。中国・四国地方にも営業拠点を展開し、事業を進めるうえでのネットワークは支店ごとに充実していた。

そして、その情報がもたらされたのは、社外人脈の一人である公認会計士からだった。「浮羽(うきは)郡吉井(よしい)町の、ある整形外科の院長先生が急逝され、奥さまが医業継承をしてくださる先生を探している」と。

その整形外科とは、篠﨑正俊(しのざきまさとし)が1979(昭和54)年に開業した「篠﨑整形外科」。19床のベッドを備えた有床診療所だ。院長の正俊は、徳島大学に学び、久留米大学病院の医局から医師としての人生をスタートした。

「篠﨑整形外科」外観

「篠﨑整形外科」篠﨑正俊院長

「そろそろ開業を」と土地を探していた頃、地元からの要請を受け、当時整形外科の無かった福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市吉井町)に開業することとなった。 「篠﨑整形外科」は、 正俊の医師としての技量から、ほどなく頼りになる医療機関として地域になくてはならない存在となった。地元医師会との関係は良好で、医師会活動にも熱心だった。また、親身な接し方と人柄が、患者さんからの信頼をさらに厚いものにしていた。

「篠﨑整形外科」 当時のスタッフ

その正俊が病に倒れた。妻・篠﨑順子(しのざきじゅんこ)は悲嘆にくれ、深い哀しみに沈んだ。あまりにも突然の出来事で、順子は何から手をつけてよいのかわからなかった。 けれど彼女にはなすべきことがあった。 「子どもたちを守り、育てていかなければ」 それは、母としての責務だった。

篠﨑正俊と子どもたち
(右が長男俊郎)

篠﨑順子夫人と正俊

診療所の建物は年数が経過しているが、医療機器は導入したばかりだ。 これをどなたかにお貸しして、と思いはめぐるが、さてどうすればよいのか…。 その時、順子の頭に浮かんだのが、遺産相続の手続きをお願いしていた内野順(うちのすなお)公認会計士だった。 「それなら医業継承事業に取り組んでいる会社に相談してみましょう」 「医業継承…」 初めて聞く言葉だったが、信頼できる先生のことだ、まずはその返事を待つことにした。

まもなくその相談は、総合メディカルになされた。

内野会計士からの一報を受けて、福岡支店のエリア担当であった原口は、すぐに動きだした。 当時、医業継承は、親子間か医局からの紹介によるものばかりで、第三者への継承の事例はほとんどなかった。候補者を探したが、福岡支店管内には条件にあう整形外科医はいなかった。 そこで九州各地の支店にも問い合わせたところ、熊本支店から「いい先生が見つかりました」との知らせが。 さっそくお会いすることにした。

その医師は澁江義朗(しぶえよしろう)、40歳。 義朗の第一印象を、原口は今でも忘れない。 落ち着いた表情や説得力のある話しぶりはもちろんだが、確かな「医療への思い」が伝わってきた。

さっそく「篠﨑整形外科」についてまとめた資料をもとに、継承物件について説明をした。医業継承は、引き継ぐ側と譲る側の、いわば縁談のようなもの。 そして、最大のポイントとなるのは、引き継ぐ医師の「医療に対する姿勢、医療への情熱」だ。総合メディカルが目指す医業継承とは、どんな医師でもよいわけではない。地域医療にあいた穴は、確かな信頼で埋めていかなければならない。 「開業希望地は熊本だとお聞きしていますが、福岡の「篠﨑整形外科」をぜひ見ていただけませんか。お願いします」 原口の言葉に、義朗は応じた。 縁談は、こうしてお見合いにまでこぎつけた。

篠﨑順子は、朝から落ち着かなかった。 夫であり経営をすべて仕切っていた院長の正俊を突然亡くして、不安にかられる日々を送る順子にとって、頼みの綱は内野会計士。そして今日、 総合メディカルという会社の方が、継承候補のご夫婦を連れてこられる。 そろそろだろうと表に迎えに出ると、遠くに姿が確認できた。それが、澁江義朗と夫人のめぐみだった。 「素敵で、とても気さくな方。初めてお会いした気がしない」順子も、めぐみも、偶然にも同じ思いを抱いていた。 診療所内を案内した際、義朗は随所で質問をした。問いはとても的確で、長年医師の妻を務めた順子には、彼の医師としての力がうかがえた。彼の口調は信頼感に満ちていた。 診療所をとても気に入ってくださったようだ。順子は、ホッとするとともに、このお二人に引き継いでもらえたらと願った。 案内を終えて、診療所に隣接する自宅に移り、お茶でもてなしていたときのこと。義朗は順子に語りかけた。

澁江義朗医師とめぐみ夫人

「熊本の西合志(にしごうし)町のご出身ですか。私は隣の菊池(きくち)市です」 そして続けた。 「医局は東京大学ですが、出身大学は熊本大学なんです。それでふるさとの熊本で開業を、と考えていたのですが…」 その日の話はそこまでだったが、縁というものはあるものだと、思わずにはいられない出会いであった。

「この先生ならば、間違いはない」 原口の直感は、 確信に変わっていった。 「「篠﨑整形外科」を訪れてから、 澁江先生の気持ちは固まりつつある。きっと、うまくいく。必ず成功する。あらためて気を引き締めなければ」 これまでもいくつか開業支援は手がけてきたが、第三者医業継承は初めての仕事。そしてこの仕事にはスピードが大切だ。ミスが許されない仕事を丁寧に、そして確実にやり遂げるために、時系列の詳細なリストを作成して臨んだ。 特に気をつけて伝えたのは、建物や医療機器だけでなく、スタッフを引き継ぐことができ、何より患者さんを引き続き診療できること。その結果、地域医療が継続し、雇用が守れるという地域貢献の面も、義朗は十分に理解した。 また土地柄として、林業が盛んで材木工場も多く、指の欠損などの事故による後遺障害を抱える患者さんも多く、整形外科需要が高いこともデータをもとに説明した。 こうして条件面が整っていくなか、原口には気になることがあった。「めぐみ夫人とお子さんは、この町にうまくとけ込めるだろうか…」 一度抱っこをしたことのある、澁江家の長女のあどけない笑顔を思いだしながら、彼は心配した。

すべてに控えめで、あれこれと口を出さないめぐみの気持ちを気づかいながら、原口は現地で打ち合わせをしていたときの義朗の言葉を思いだした。

「豊かな自然の中で子育てができることを、家内はとても喜んでいるよ。一番の決め手は、この素晴らしい自然だろうな」

そう、初めてお連れしたとき、めぐみ夫人は言っていた。 「この風景は、私のふるさと新潟に似ている」と。 「篠﨑整形外科」開業の際に順子が、最高の子育て環境だと喜んだ自然を、めぐみもわが子のために選んだのだった。

筑後川を臨む吉井町の風景

そして、吉井町に隣接する田主丸(たぬしまる)町で澁江家の自宅の建築も始まった。 これで、すべてうまくいく。原口の懸念は解消された。

あとは時間との戦いだった。やらなければならないことは山ほどある。 各種契約書作成やスタッフの再雇用手続き、一部のリフォーム工事や看板変更と取り付け、開業広告の制作と配布などはもちろん、緊急時の地域医療連携先である久留米大学病院との調整、消防署などの公的機関や地元の各種団体へのあいさつなど、幅広く支援をおこなった。 当時、まだパソコンは普及しておらず、多くの手書きの資料や契約書と格闘しなければならなかった。マニュアルもない手探りの状況のなか、原口は悪戦苦闘しつつ、必死に取り組んだ。

そして、「篠﨑整形外科」から「澁江整形外科」へ。

総合メディカルにとって初の第三者医業継承は、こうして 1993(平成5)年5 月に実現した。 依頼を受けて、わずか半年後の継承実現であった。

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