1. 【第20回】自然の流れのなかで「いのち」に寄り添う在宅医療を ~『四万十~いのちの仕舞い~』×小笠原望(大野内科院長)~

著者とモデルを直撃! 医療マンガ・ドラマの裏話を教えます!

【第20回】自然の流れのなかで「いのち」に寄り添う在宅医療を
~『四万十~いのちの仕舞い~』×小笠原望(大野内科院長)~

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四万十川の流れる自然豊かな高知県四万十市。そこに生きる人々に寄り添った医療を続け、患者さんの「いのちの仕舞い」に向き合う小笠原望医師を尋ねた。

ドキュメンタリー映画『四万十~いのちの仕舞い~』(監督:溝渕雅幸)

四万十~いのちの仕舞い~

日本一の清流、四万十川の流れる高知県四万十市で、自然とともに生きる地域の人々に寄り添う医療を続けている内科医・小笠原望の日々を追ったドキュメンタリー。小笠原医師の診療所には、毎朝、多くの人が訪れる。小笠原医師は患者さん一人ひとりに語りかけ、耳を傾け、診察をする。診療所に来られない患者さんには、傷だらけの軽自動車を駆って往診も。

カメラは、在宅医療に取り組む小笠原医師と四万十川流域に暮らす地域の人々との交流を見つめながら、本当の豊かさや幸せのありかを探っていく。監督は、終末期を迎えたがん患者のためのホスピスを題材にしたドキュメンタリー『いのちがいちばん輝く日 ~あるホスピス病棟の40日~』を手がけた溝渕雅幸。2018年1月より公開されたほか、各地での自主上映会も開催され、幅広い層から話題を集めている。

医師には向いていないと言われたが……

野球の盛んな土佐の生まれですから、子どものときは「将来は野球の選手!」と夢を描いていました。父が草野球の監督をしていたので、その影響があったのかもしれません。けれど、中学校に入った時には体力的に無理だと諦めていました。その後、学校の先生になることを考えたのですが、兄が大学の教育学部に進学していたので、同じ道をめざすのもどうかなあと……。その頃、父の影響で川柳を作って新聞に投句を始めるようになりました。川柳は自分を支える趣味というか、つらいときを救ってくれる存在になっていきます。

医師になろうと思ったのは高校3年の夏。父が十二指腸潰瘍の手術後に容態が急変し親戚が集められたことがあります。生きるか死ぬかの瀬戸際のところでした。結局3か月ほど入院して退院したのですが、私はその時から医師になろうと強く思うようになりました。ただ、私は気が弱くて血を見るのがダメ。母からは、手先も器用ではないし、口下手だから、絶対に医師には向いていないと言われていたんです。

大学は四国から離れて弘前大学に入学。当時は国立大学が1期校・2期校の時代。第一志望の1期校は落ちてしまった。弘前を選んだのは、実は物理が全くできなかったので、受験科目で物理を選択しなくてもよかったから。弘前大学は学生教育において研究よりも臨床を経験させるプログラムが進んでいました。それが肌に合いました。

大学6年の夏休みの実習で急性虫垂炎の第三助手として立ち会ったことがあります。先ほど気が弱くて……と言いましたが、その時、術創から血が流れ出しているのを見ていたら目の前が真っ白に。その場で倒れて気を失ってしまったのです。周囲からは「こんな学生は初めて。医師は絶対無理」と心配されました。ただし、気を失ったのはこのときだけです。

そんな私でも大学を卒業し、医師の道を歩み始めます。徳島大学第一内科教室です。医師になって初めての患者さんのことは今でもよく覚えています。70歳を超えていました。腹部に腫瘤があり開腹したところ、すい臓がんで切除できなかったのです。その後、腎不全を併発していました。新米医師はどうしてよいかわからず、うろうろ、おろおろです。1週間ほど病院に泊まり込んで、病室を出たり入ったり……。

最期を看取った翌日、疲れ果てていた私はかなり遅れて出勤しました。その時、病棟医長から「担当医がいないなんておかしい、訴訟を起こすと遺族から言われたらどうする!」と叱責されたのです。自分に甘えていたのを思い知らされました。

2人目の患者さんは白血病、3人目も白血病で、亡くなりました。同期入局の13人の中でも担当の患者さんが亡くなるのは私だけ。さすがにこたえました。何もできない自分に心が折れそうになったのです。しかし、死を看取ったつらい経験が私をつくりあげたのかもしれません。同時に修羅場を何度も経験したことで、手先も動くようになっていきました。習うより、慣れろ、ですね。

看護師から学んだケアの心構え

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病院ではできない「いい仕舞い」を

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