1. 【第13回】アフリカで学んだ医療の原点 ~『風に立つライオン』×柴田紘一郎(介護老人保健施設「サンヒルきよたけ」施設長)~

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【第13回】アフリカで学んだ医療の原点
~『風に立つライオン』×柴田紘一郎
(介護老人保健施設「サンヒルきよたけ」施設長)~

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『風に立つライオン』(原作・さだまさし)
映画『風に立つライオン』(監督・三池崇史、出演・大沢たかお、石原さとみ、真木よう子)

『風に立つライオン』『風に立つライオン』

日本人医師・航一郎(大沢たかお)は勤務していた大学病院からケニアの研究施設に自ら手を挙げて派遣される。「アフリカの父」と呼ばれたシュバイツァー博士に憧れ、医師の道を進んだ航一郎にとって「夢」の実現でもあった。同時にそれは、女医として離島医療の道を歩み始めた恋人・貴子(真木よう子)との別れを意味していた。 ケニアに赴いた航一郎は、重傷を負って次々と運ばれてくる少年たちの姿に驚く。みな麻薬を注射されて戦場に立つことを余儀なくされた少年兵だった。そんなある日、航一郎のもとに少年兵ン・ドゥングが運ばれてくる……。



ケニア帰りの柴田紘一郎氏の話に触発されて、さだまさしが楽曲「風に立つライオン」を発表したのが1987年。歌に惚れ込んだ大沢たかおが、さだに小説化を希望するが、完成したのは2013年になった。2015年に映画監督・三池崇史によって映画化。ケニアロケをはじめ、80年代の医療器具を集め、古い車を探し出すなど、当時の状況に近い環境を再現して話題を呼んだ。

子どもの頃の夢が現実に

柴田紘一郎氏柴田紘一郎氏

私の名前の紘一郎は、大東亜共栄圏のスローガンに使われた「八紘一宇」から取られたものです。この名前からもわかるように私は1940年、戦前の生まれです。

終戦は5歳のとき。防空壕に逃げ込まなくてよくなったことや、外に出て自由に遊んでいいと言われたのを思い出します。外で遊ぶといっても、当時は遊び道具なんて何もありません。あるのは野っ原や森、川の自然だけ。木に登ったり、川で魚を釣ったりしていました。釣りといっても竿がないので、竹を切って糸や針は身近なもので工夫するしかありませんでした。



当時、紙芝居でよく見ていたのが『ターザンの冒険』でした。その中でアフリカのジャングルを舞台に、怪我や病気で苦しむ人たちを助けるアルベルト・シュバイツァー博士の話がありました。

その後、シュバイツァー博士の伝記を読んで感銘を受けました。将来はアフリカに行きたい、ドクターになりたいという気持ちが自然と芽生えたのかもしれません。中学3年のときに、友人たちと血判状に「アフリカに行ってノーベル賞を取る!」なんて書いていたほどですから。いつかはアフリカに行きたい、そのためにはドクターにならないと、というのが医師を志した動機ですね。

大学は、当時の日本で数少ない、熱帯医学研究所のある長崎大学医学部へ。熱帯医学研究所では、海外技術協力開発事業団(OTCA)でケニアへ医師や看護師、検査技師らを派遣して医療支援を行っていたのです。アフリカへ行く一番の近道に思えました。

卒業し外科を専攻して5年目の1971年、医局内の会議で教授から「前任者の任期が終わるので、次にケニアに行きたい者は?」と提案がありました。誰も手を挙げません。言葉もよく通じない世界にほっぽり出されるのです。私も技術はまだまだ未熟で、尻込みしていました。しかし、アフリカに行きたいという夢が勝ったのでしょう。何回目かの会合のときに、「私でもいいでしょうか」と恐る恐る手を挙げたのです。教授が「やっぱりキミしかいないと思っていたよ」と大いに喜ばれたのが、今でも印象に残っています。

それから日本を発つまでの3カ月は、教授や先輩、同僚たちの協力を得て、できる限りの手術経験を積みました。現地で役に立つように、外科医師としての技術をできるだけ高めておきたかったのです。

ケニアで学んだ医師としての「原点」

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