新崎 修 社会医療法人友愛会 豊見城中央病院 院長
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新崎 修

社会医療法人友愛会
豊見城中央病院 院長

いくつもの節目が刻印された医師人生。
沖縄医療の発展に伴走した自負を、
今回は新病院のローンチに注いでみようと思う。

沖縄県豊見城とみぐすく市の豊見城とみしろ中央病院は、2020年に新築移転し、超急性期
および急性期と高度先進医療への取り組みを強化するプランを実現する。
新崎修氏は、同院院長として計画推進の屋台骨を担う。
新崎氏は循環器内科の権威として、とりわけインターベンション治療において揺るぎない業績を残してきた臨床医であると同時に、沖縄県の医療が健全に前進することを願い、慈しむ医療人でもある。

プロフィール

新崎 修(あらさき・おさむ)

  • 1987年 琉球大学医学部医学科卒業
  • 1987年 琉球大学第二内科(研修)
  • 1988年 那覇市立病院(研修)
  • 1990年 大道中央病院
  • 1991年 那覇市立病院
  • 1992年 国立療養所 豊橋東病院(研修)
    (現国立病院機構 豊橋医療センター)
  • 1992年 那覇市立病院
  • 2002年 豊見城中央病院
  • 2005年 同循環器内科部長
  • 2016年 同特命副院長兼部長
  • 2017年 同副院長
  • 2018年 同院長

〈所属学会・資格・役職など〉

日本循環器学会

日本心臓病学会

日本心血管インターベンション治療学会

新崎 修(あらさき・おさむ)

2020年夏、新病院オープン
そこに向けて、全精力を傾けて邁進する

新病院の模型(上)とプロジェクトが院内に紹介されている。

2018年4月、新崎修氏は豊見城中央病院院長に就任した。

2002年の入職以来、同院の循環器内科を牽引し、診療科部長、特命副院長、副院長を歴任したキャリアの次のステップを踏んだ。

「現地点での院長職における喫緊の課題は、2020年夏までにオープンする新病院の開設準備です。豊見城市与根地区で建設が進む新病院は2020年3月には竣工となりますから、移転に際して組織をどうリニューアルするかなど、すべきことが山のように控えています」

1980年開設の同院は、30有余年におよぶ診療活動の結果、地域になくてはならない医療機関となったが、拡大しつづける医療ニーズに対応するには用地そのものが手狭となっていた。そこで、直線距離で2キロほど離れたゴルフ場跡地に、同院の超急性期および急性期と高度専門的医療・先進医療を切りわけるかたちでの新築移転を決断した。

新病院はヘリポートを持つことで象徴されるように、救急医療に注力する。その下支えとなるべきERスペースは、現施設に比べて約5倍に拡張される。また、放射線治療機器を充実させ、この地域で一貫したがん診療を展開する。2010年代に入ってから全国的なトピックスを発信しつづけている再生医療に関しても、細胞シートを実臨床にまで適応させた実績を引っさげて新施設に移転する計画だ。

「ハードウェアに関しては、十分な予算を投じて理想的なものが手に入る予定です。だからこそ、肝要となるのはどんなソフトウェアを入れ込むかとなるわけです。つまりは、どんな組織にするかですね。

組織図を修正する必要があるでしょうし、新しい組織図を機能させるにはスタッフ間のコミュニケーションにも新しいあり方が求められます。微細な視点でも、たとえば手術室の運用を、ふさわしく効率化させるための人員体制はどうか、カート運用などの手法選択はどうかなど、議論すべきことが数多くあります。現在は、移転計画のためのタスクフォースがいくつも動いていて、毎日のようにミーティングがあります。最終責任者として各部門の重要な会議にはすべてに顔を出す必要がありますから、忙しさは文字どおり『目が回るほど』です」

就任から1年、新病院移転という大事業に優先的に時間を割いてきた新院長だが、もちろんそれだけに忙殺されるわけにはいかない。日々の診療、運営を的確に判断し、指示を送らねば本末転倒。さらには、5年、10年先のビジョンも示さなければ、院内に迷いが生じてしまう。

「めざすのは、日本一地域に信頼される病院です。そのためには、医師、スタッフにとってやりがいにあふれた職場にする必要があると考えています。よりよい環境が整い、職員、関係者の一人ひとりがすべきことに集中できてこそ、地域の皆さまの期待にこたえる医療が提供できるのだと思います」

院長とは、なんたる激務かと驚くばかりだ。新崎氏は、そんな強大な責務に押しつぶされることなく、むしろ、どこか楽しんでいる風情さえ見せながら院内を飛び回っている。

受験失敗、父親と死別
新規医学部の誕生と再挑戦

新崎氏は日本の高度成長期に育った世代だ。猛烈に働き、大きな対価、大きな達成感を獲得するライフスタイルが主流だった時代。

「医療と医学も、医師個々人の猛烈な頑張りで支えられていたと思います。24時間、365日を臨床や研究に捧げるのが当然。もちろん、私もそんな感覚で研鑽しましたし、密かにその点に自負をもっています。

ですが、今はもうそんな時代ではありません。そういったスタイルを若手に求めるつもりはありません。今考えるとあの時代の医療は医師の生活を犠牲にして成り立っており、時間の使い方も非効率的でした。今、私たちが医療人のワークライフバランスを無視して提案すれば、離脱、離反、組織の崩壊が待っていると考えます」

ところで、年代としての世代を整理するために「高度成長期」を引用したが、時代体験としての世代をいうならそれは正確性を欠く。新崎氏は、那覇市生まれの沖縄っ子。14歳の時、1972年に本土復帰が叶うまでの沖縄は、米軍占領下の琉球政府が統治していたため、本土に生まれ育った者とはまったく違う流れの時間に身を置いていたのだ。

当時の沖縄の医療界の特異性を物語る事柄の一つが、通称国費医学生。沖縄の医療を充実させる責任の一端を引き受けた日本政府が、選抜された学生を本土の大学医学部に受け入れ、学費援助した制度だ。本土復帰後の1980年に廃止されるまで、数多くの医学生がこの制度のもとで学び、沖縄に帰った。新崎氏は、この制度の選抜試験に挑戦した最晩期の世代だ。

「残念ながら、試験に失敗してしまいました。兄も姉も合格した試験だったこともあり、かなり落胆したのを覚えています」

次善の策として、理工学部を受験し、合格。漠然と、エンジニアのような職業に就くイメージで進んだのだが――。

「納得は、できずにいましたね。医師、医学者になりたいという夢が叶わなかった。受験に失敗した責任は自分にあると頭ではわかっているのですが、飲み込みきれない」

そんな時、一つの情報が舞い込んだ。受験した翌年、1979年に琉球大学に医学部が新設され、入学試験日程も決まりつつあると。

「天啓を感じました。これだと思った。理工学部への入学手続は途中でやめて、受験の準備を始めました」

実はこの年、新崎氏は父親を亡くしている。

「心筋梗塞での急死でした。ひどく、悲しかった。その出来事が、私の、医師への執着をより一層強くしたことは事実だと思います」

血気盛んな若手医師が選んだ
循環器内科、インターベンション

終戦後の占領統治から、本土復帰へ。特殊な時代の特殊な制度下での、医学部への挑戦と失敗。そして、新設された県内医学部の、栄えある一期生としての入学。さらには、父との死別。ほんの数年の間に、マイルストーンにも傷跡にもなりうる節目をいくつも刻んだ新崎氏の思春期だった。

卒後の新崎医師は、当人いわく「血気盛んでした」とのこと。琉球大学第二内科に入局したものの、4年後にはそこを離れている。理由は――。

「臨床をしたかったからです。医局が私たち医局員を大事にしてくれて、研究テーマをあたえて医学者としての道も示してくれました。感謝の念も大きかったのですが、私は研究より臨床がしたかった。

具体的に、当時黎明期を迎えていたインターベンション(心臓カテーテル)を学びたいというテーマをもっていました。循環器内科に進み、まずは血栓溶解療法を学んだのですが、臨床を重ねるにつれ、治療法の限界を感じていました。インターベンションは、その限界を超える画期的な技術だと直感できるものでしたから、一も二もなく学びたい、学ばねばと思ったのです」

時は昭和、場は国立大学医局。医局員が臨床と基礎研究を両立させ、それなりのペースで基礎研究の成果を出しながら医療を提供するのは当然と思われていた。個人の意志で臨床に重きを置く活動など、許されるはずもなかったのだ。卒後早々にして、新崎氏の人生には「医局離脱」という、もう一つの節目が刻まれたわけだ。

「今振り返れば、思い切ったことをしたなと他人事のように思いますが、当時の私は、まったく意に介していなかったのですね。前しか向いていなかった」

インターベンションが拓いた
心疾患治療の新時代とともに

2020年を迎える現在の日本医療界において、虚血性心疾患が薬物療法、心臓血管外科による冠動脈バイパス手術、循環器内科による冠動脈インターベンションを治療の3本柱とする疾患領域であることは広く認知されている。「内科医による低侵襲な外科治療」を特色として前面に出し、日に何例ものインターベンション術を実施する医療機関さえある。インターベンションが循環器医療にもたらした変革は、劇的なものだったといえる。

「そこに身を置いた私たち世代の中には、いい時代を過ごせたという感慨が宿っています。楽しかったし、やりがいに満ちていました」

新崎氏のインターベンションには、師匠がいる。同分野の開拓者の一人として名高い鈴木孝彦氏(現豊橋ハートセンター院長)に師事した。

「偶然にも、研修時代の尊敬できる先輩が鈴木先生と面識がありました。相談するとすぐに電話をかけてくださり、鈴木先生から『よかったら、おいで』とのご厚情をいただけることになりました。幸運を感じました。たった半年でしたが、本当に充実した日々でした。半年間はずっと病院(当時、鈴木氏が勤務していた国立療養所豊橋東病院)の一室に泊まり込み、朝は定期の検査・治療で始まり、夜間は緊急でのインターベンション治療と、手取り足取りのご指導をいただきました。短い期間でしたので、弟子を名乗るのはおこがましいと思っています。しかし、私の心の中では、鈴木先生は忘れがたい師匠です」

半年の研修を終え、那覇市立病院に戻り、いよいよ初のインターベンションを実施すると決まった折、なんと鈴木氏が豊橋から駆けつけたとのこと。

「『一人きりじゃ、どんな失敗をしでかすか心配でね』と、施術に立ち合ってくださいました。言葉にできないほどありがたかったです」

誰が見ても、立派な師弟関係であろう。弟子の「デビュー」に際してはるばる沖縄に赴いた師は麗しく、師に足を運ばせるほどの御眼鏡にかなう努力を見せた弟子も立派だ。

医師人生への刻印
失職と就職活動もその一つかもしれない

豊見城中央病院

新崎氏は、言い直した。「いや、辞表はそっと出したんですよ、そっと」。「先生は確かに、『叩きつけた』と発言されましたよ」。「いやいや、そこはほら……」――そんな掛け合いが生まれ、取材の場に柔らかい笑いがはじけた。

熱血漢は、「見るからに」タイプと「実は、内面は」タイプに分かれる。新崎氏は、後者だ。整った顔立ちに常に微笑を絶やさず、話し方も柔らかく、実直さが伝わってくる。診察室で患者さんにどんな接し方をしているかが、容易に察せられる。だが、「血気盛んでした」と20代の自身を分析するとおり、重要な局面でのうやむやな行動や言動はない「熱い人」であることも確かなようだ。なにしろ、以下の話は卒後15年目のエピソードなのである。

「当時、那覇市の救急診療は多くの病院から多数の医師を派遣していただき、那覇市立病院地下の救急診療所でおこなわれていました。診断や初期治療を受けた後に、そこから輪番制の当番病院へ搬送されるという運用でした。当然ですが、重症な患者さんがいるとその搬送には大きな危険が伴うことがあります。私も度々、救急診療所の医師の一人として参加していましたが、そこでお話する先生方の要望は『重症患者の搬送の危険を避けるため、市立病院で受けられるようにならないか』というものでした。もっともな話だと思いましたので部長会や医局会などでその意見を伝えていきました。しかし、病院全体の体制を鑑みての考えもあったと思いますが、上からの理解はなかなか得られませんでした。断るべきではないとの具申を繰り返す私と病院との間には、いつしか軋轢が生まれていました。また、その当時の市立病院はかなり保守的でしたので、その他にもいろいろな提言をしたのですが、結果は同じでした」

当時の沖縄では、多くの公立病院が変化を嫌う傾向にあった。実は、その数年後に那覇市立病院は独立行政法人化へと大きく舵を切り、以後、組織の風通しは格段によくなるのだが、そんな未来を予見できるはずもない。いずれにしろ、大きな変化を要望する新崎氏は、深刻な壁を感じ悩んだ。

「そして、ある日、もうだめだと思ったため、辞表を出したわけです」

なるほど、豊見城中央病院への移籍を決めて辞めたのですね?

「いや、まず辞めました。無職になるので、就職活動をしなければと思いました」

40代の勤務医が、水面下の移籍活動もなく辞職するとは。拙速やら無思慮やらの苦言には、甘んじざるをえないだろう。しかも、こんな打ち明け話まで添えられた。

「辞表を出して病院を出る間際に、『あっ』と思い、公衆電話をとりました。翌年、私のもとでインターベンションを学んでくれるという若手医師を受け入れる約束があったのです。もう詫びるしかありません。受話器の向こう側で彼が終始無言だったのは、こたえましたね」

いずれにしろ、内側にフツフツとたぎる熱いものを、重大局面で吹き出し進んできた人物であることだけは確かなようだ。

顛末を記せば、その若手医師は、翌年に豊見城中央病院に移籍してきて、無事、新崎氏の指導を受けられるようになったとのことだ。

必至の求職か、騒然の移籍劇か
真実は藪の中なれど、結果から類推するに

という次第で始めた就職活動だったが、驚くほど早く職が見つかったとのこと。もちろん、それが豊見城中央病院だ。理事長・院長面接は好感触で、「インターベンションの設備は万全に整えますから、希望を言ってください」という言葉まであったのだそうだ。

先生、それは三顧の礼をもって迎えられたんじゃないのですか?――この一言は飲み込んだ。往々にしてあるが、当人の心象風景は「つらい就職活動」だが、当人以外の第三者の目には「有力医師の移籍劇」と映ったケースなのではないか。トップランナーから直接学び、新技術(インターベンション)を沖縄に広げた。その技術を操り、約10年間臨床を展開し、研修医も集まるようになっていたのだから、名前は皆が知っている。患者さんは、絶対に集まっていたはずだ。医療関係者の間では「彼は、どこに移るのか」、あるいは「どの医療機関が射止めるのか」で、持ちきりだったのではないだろうか。

入職16年目に院長拝命という事実だけから類推しても、新崎氏が同院の隆盛になにがしかの貢献を果たしたことだけは確かなわけで、職を求める側も受け入れる側もウインウインな結末を得られた移籍との見立ては、決して大きくはずしていないと思うのだ。

新崎氏に医師人生を振り返ってもらった。

「みんなよく頑張ったと思います。戦後、『沖縄の医療を本土並みに!』との思いをもって汗を流した先達がいて、私たちはそれを引き継いだ世代。総論として、医療に従事する者全員が、ほんとうによく頑張って、かなりの水準にまで引き上げることができたと思います。私もそんな世代の一員として、できる限りのことはしたと自負しています」

さらに質問を加えた。父への思いが医師への執着を生んだという話があったが、循環器内科という領域にも父への思いがあったのか?

「それは、ありますよ。今のインターベンション技術があれば、ほぼ助けられただろうなと。これは、医師冥利なのでしょうか、因果でしょうか。妙な気分ですよ」

そう言って、新崎氏は笑う。次の瞬間にはもう前を向く視線で、どうやら「血気盛ん」モードの通常運転の様子。新病院のローンチ(発進)に全神経、全エネルギーを注ぐのだろうと察せられる風情なのだった。

若手医師へのメッセージ


私たちは際限なく、猛烈に働くことが美徳とされた
時代に育ちました。

それをみなさんに押し付けるつもりはないのですが、
今の時代なりに、妥協なく働いてほしいとは思います。

妥協なくとは、言い換えれば、常に最短、最速を心がけて
一直線に自分でやりきったと思える時間を過ごすこと。

そんな成功体験を若い時期に得られれば、その自信が支えとなり、多少の辛いことがあってもいつも前向きでいられる。
私は、そう信じています。