1. 池ノ上 克 国立大学法人 宮崎大学 学長 医学博士
池ノ上 克 国立大学法人 宮崎大学 学長 医学博士
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池ノ上 克

国立大学法人 宮崎大学 学長
医学博士

周産期医療確立の立役者が、
地方国立大学の学長として振るタクトは、
どんな音色を創成するだろう。

2015年10月、宮崎大学の学長に池ノ上克氏が就任した。
2003年に宮崎大学と宮崎医科大学が統合し新生して以降、3代目の学長だ。
2016年の国立大学機能分化で「地域への貢献」を選択した宮崎大学は、
池ノ上氏の指揮のもと、着実に前進し、オリジナリティあふれる業績をあげつつある。
2018年10月に2期目の任期に突入した実力派学長に、学長としての抱負と、 周産期医療の黎明期を支えた医師としての感慨を、じっくりと聞く機会に恵まれた。

プロフィール

池ノ上 克(いけのうえ・つよむ)

1970年、鹿児島大学医学部卒業。医学博士。日本母性衛生学会理事長、元日本周産期・新生児医学会理事、元日本産婦人科・新生児血液学会理事長。1972年に鹿児島市立病院産婦人科医員となり、翌年、南カリフォルニア大学医学部で周産期医学を学ぶ。1991年に宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)の教授として赴任、周産母子センターを立ち上げ、周産期医療ネットワークの導入を促進。宮崎の周産期医学を臨床および研究面で日本のトップレベルに押し上げ、多くの産婦人科医を育成している。2011年、宮崎県地域医療支援機構代表者会議議長に就任。2015年、宮崎大学学長に就任。

池ノ上 克(いけのうえ・つよむ)

台湾の大学との学術交流に加え、
野球部の交流が話の皮切りに

学長室に飾られた、台湾の国立嘉義大学との野球親善試合のパネル。

軽い雑談から実質的にインタビューがスタートしていたということはよくある。今回、野球部の親善試合の話が皮切りになった。

「『KANO 1931海の向こうの甲子園』という映画をご存じですか? 日本では2015年に公開された台湾の映画です。その舞台となる台湾の農林学校は、実は現在の国立嘉義大学なんです。2017年、当校が嘉義大学と学術協定を結んだ際に先方の学長さんが『勉強もいいですが、野球でも親善しませんか』とおっしゃってくださって、うちの硬式野球部と試合をさせてもらいました。今年も試合が予定されています」

試合の勝敗についてはあえて質問しないつもりだったが、話者が触れてくれた。

「映画で描かれたように、嘉義大の野球部は戦前の甲子園大会で準優勝した伝統をもっていますし、現在も台湾の野球エリートを輩出する一流野球部です。同校OBには日本のプロ野球で活躍した選手も多いですからね。

野球では、実力差は歴然でした。ただ、うちの野球部員たちが英語を操って、うちとけた雰囲気で学生間交流をしている風景を誇りに思いました。試合後の交流会では、事前にスライドなども用意してあって、宮崎のお国自慢や大学紹介などもしっかりとプレゼンテーションしてくれました。頼もしかったですね」

大学学長というものが、どのような職で、どのような喜びのある立場なのかが少しだけイメージできたように思う。

また、宮崎県の国立大学が台湾の大学と交流している事実から、地勢も感じ取れた。ひょっとしたら、水平線の向こうの台湾は、東京より心理的に近いのかもしれない。そんな学府から生まれ出るものは、大都市圏の学府からのものとはひと味、ふた味違うはずだと期待できる。教育学部、医学部、工学部、農学部、地域資源創成学部の5学部を擁する宮崎大学が掲げるスローガンが、「世界を視野に地域から始めよう」であることに深く合点したのだった。

「医師のにおい」を出さない心がけ
臨床医時代も、大学学長としても

宮崎大学(上)の敷地内にある地域デザイン棟(下)。民間企業から寄贈された、24時間自由に使える施設。

学長として手腕を発揮する池ノ上氏が医師であることへの特筆は避けて通れない。総合大学の医学部長が学長に上りつめることそのものがトピック、との見方も成り立つ。取材中、「医師や医療の『におい』のする写真を用いたい」と申し出ると、返答の笑顔が若干シニカルになったように感じた。

「それは、おまかせしますよ。ただ、私は、今も昔も『医師のにおい』は出さないよう心がけていますが」

心がけの意味は、「今」と「昔」、つまり大学学長と、医師として臨床の最前線にいた時代とではニュアンスが違ってくるだろう。いずれにしろ、この人物の心がけが時代と立場を変えても同じ言葉に収れんされるのが、とても印象的だった。

「鹿児島の5つ子の産科医」という
パブリックイメージに逆らわない本人

昭和50年代、池ノ上克といえば「鹿児島の5つ子を取り上げ、無事に成長させた産科医」として知らぬ者はいないほどの有名人だった。めでたく、珍しく、微笑ましいエピソードで国中の耳目を集めた出来事の中心に、この人物がいた。5つ子の出生は1976年。池ノ上氏が在籍する鹿児島市立病院が舞台となった。

多くの国民は、池ノ上氏を「産科医」と理解した。もちろん、そう呼ばれても当人から特段の抗弁はないが、池ノ上氏が気鋭の「周産期医」で、そこに先進の周産期医療が機能していなければ、5つ子の吉事が惨事になっていた可能性さえあることは専門家たちだけが強く認識していたのだった。余談になるが、この時代に前述の心がけを発揮する池ノ上氏が5つ子の両親に、「医師のにおいのしない」態度やふるまいで接していた景色が鮮明に思い出され、筆者は感慨深かった。

宮崎県が周産期死亡率の低減を期待して招聘
ところが、当初3年はさらに数値が悪化

産科医のバイブルでもある『Williams OBSTETRICS』(左)と、池ノ上氏が監訳した『みえる生命誕生 受胎・妊娠・出産』(右)

1991年、池ノ上氏の業績を評価し、産婦人科教授として医科大学に招聘したのが、隣接する宮崎県だ。当時、周産期死亡率で全国ワーストランクの上位を記録しつづけた医療状況の改善を期待されているのは、本人も強く自覚しての着任だった。

あまり知られていないことだが、池ノ上氏着任以降の3年間、周産期死亡率はさらに毎年、歴代のワースト記録を更新した。実力者が取り組んでも、3年間は下落を止められないほどの状況だったのだろうか──。そんな予測のもとに質問を繰り出すと、想像を超えた答えが返ってきた。「私が、死亡率を上げたのですよ」とのこと。掛け値なしに、仰天させられた。

「数値がさらに悪くなるのは織り込み済み、覚悟のうえで取り組みました。この地に周産期医療を根づかせるには、胎内死亡を減らすことから始めなければならないのは明白でしたから」

胎内死亡と新生児死亡と、周産期死亡率の関係を整理しつつ、話を聞きつづけた。

「乱暴に言えば、胎内死亡に至るような疾患や不運をかかえたお子さんは見捨ててしまえば、新生児死亡率は下がります。つまりは周産期死亡率というデータには好影響なのです。着任当時の宮崎県では、産婦人科での胎内診断や胎児管理などもあまりおこなわれていない状況でした。具体的には、32~34週は『産ませない』のが産婦人科のスタンダード。それ以前に産ませても、申し訳ないが、当時の新生児医療では助けられないという考えがまかりとおっていました。

そこを変えなければならない。まず胎内死亡の可能性があるかどうか見極めることから始め、あると判明したら『産ませない』ではなく、出産させ、ハイリスクな未熟児として保育器に入れるようになりました。ハイリスクな未熟児が増えるのですから、新生児死亡率がそれまで以上に上がるのは仕方ないことなのです」

新生児死亡率は上がったが、それまで誰も気にとめていなかった胎内死亡数が減った。そこをスタートラインに定めていた池ノ上氏は、聞こえてくる「いったい何をしている」といった類いの風評に揺るぐことなく取り組みを続けた。具体的には、麻酔科教授と折衝し、緊急手術(帝王切開)に即時に対応できる体制づくりを進めた。産婦人科が新生児を扱うにあたって絶対に誤解があってはならない小児科との間に、教授間の話し合いを重ね、理解を形成した。そして、難易度の高い出産と低い出産の役割分担を地域で果たし、ハイリスクが判明した妊婦や新生児を高度医療機関にすぐに送れる体制を立てた。

結果、着任から8年目の1999年に、周産期死亡率全国ベスト1(もっとも死亡率が低い)という成果を達成したのだった。

「数値を改善させるのにもっとも寄与したのは、この間に、大学医局の産婦人科医、小児科医が『ハイリスクな未熟児も、本当に助けることができるのだ』と理解し、自信がもてるようになったことだと思います。人が育ったのです。人が育てば、臨床の質も上がります」

当時を振り返り、率直に「暗中模索で、確信をもって計画を構想できるような余裕はなかったです」との感想を吐露する。暗中模索のなか、環境を整備し、人が育つのを待ち、8年の時間を経て、付託された期待に見事にこたえてみせた。

テレビ画面から飛んできた、予想外の非難
周産期への正しい理解には、もう少し時間を要する

宮崎大学医学部附属病院にて、後進たちと。
池ノ上氏は週に1度ラウンド(回診)をおこなっている。
(写真提供:池ノ上克氏)

2018年現在、池ノ上氏が中心となって築きあげた周産期医療のネットワークは、「宮崎方式」として周産期医療の世界では名のとおったものである。

「鹿児島市立病院に20年間勤務し、周産期に必要な地域医療連携の機能は把握していました。結果的に奏功したのは、そのネットワークのかたちをそのまま移植するのではなく、県民性の違い、地域性の違いに則してアレンジできたことだと思います」

池ノ上氏は鹿児島県で成功した一極集中型の連携ネットワークを、宮崎県では、県内を4つのブロックにわけた分散型にチューニングして導入した。この体制づくりは、厚労省(当時の厚生省)が「総合周産期母子医療センター構想」を発表する以前に完了していたのも、またよく知られたことだ。

「厚労省の構想の詳細を知って──人口100万人に対して1つの総合周産期母子医療センターを作る見積もりは、人口の少ない宮崎県には合わないなと直感しました。国の補助はあるにしろ、莫大な予算を追加する必要がありますから、無理して基準を満たすべきなのかは疑問でした」

そんな悩みを共有する県の担当者と対応を協議している最中の2006年、一つの事件が起こった。いわゆる「奈良/妊婦たらいまわし事件」である。

「かわいそうな出来事でしたが、その衝撃から、国民が『周産期医療』に対して問題意識をもってくれたのは幸いかもしれない。そう思っていた矢先でした……」

全国放送のテレビ番組が、周産期医療をテーマに特集を組んだ。そこで、「国の定める総合周産期母子医療センターを持たない3つの県」に話題がおよんだ。宮崎県が入っていた。なぜ入っていたかといえば、「必要ないから、作っていなかった」。なにしろ、すでに周産期死亡率ベスト1(その年も堅持)なのだから。

「番組司会者が画面のこちらに向かって『宮崎県の皆さん、お宅はあぶないんですよ、周産期!』と叫んだのには、心底びっくりしました」

この一言は、県議会を騒然とさせるには十分だった。すぐに問題提起された。

「ただ、県の母子保健課課長がすぐに『現体制で全国1位の統計値を得ています』と説明をおこなうと、議員さんたちが混乱なく理解してくれたらしいです。ほっとしたのを、よく覚えています」

今だから笑って話せるのだろう。しかし、周産期とは何か、周産期の現状はどうかについて、正しい理解を得るのはたやすくないようだ。

「周産期を誤解している方は、いまだに医療人のなかにさえ多くいらっしゃいます。この状況は、もうしばらく続くようです。残念ながら」

そうつぶやく池ノ上氏だが、決して将来を悲嘆しているようには見えない。すでに最前線から身を引いているが、後進の働きに確信に近い期待をもつのではないだろうか。

「私は28歳の時に南カリフォルニア大学に留学し、世界最先端の周産期の実際を見聞することができました。鹿児島に帰り、市立病院で実践したのも、宮崎に拠点を移し、広める努力をしたのも、世界基準の周産期医療です。その点への自負は、かなり強いものがあります」

池ノ上氏の薫陶を得た後進は、累積で何名におよぶのだろう。そういった人材がすでに、県内はおろか県外でも着実に仕事を進めている。今はまだ途上だが、近い将来必ず──。終始絶えない笑顔は、そんな確信に裏付けられたものなのだろう。

学長とはかくあるものか。
まるで、間借り人のようなすがすがしさ

学長室の調度品に話題がおよんだ。

「家具も、展示してある記念品も、ほとんどが先代学長以前からのものです。そのまま使わせてもらっていますし、残してあります。私が学長になってからのものというと──」

目線の先には、写真をコラージュしたボードが一枚。嘉義大学との親善試合の写真だ。まるで学長室を「間借り」、または「仮の住まい」としているような印象を受ける。社長室や学長室が、自己主張と自己投影に満ちあふれているケースは幾度となく見てきたが、池ノ上氏はその対極だ。必要があって、仕事のためにここにいる。そんなすがすがしい認識が、伝わってくる。

2018年10月に2期目に入った学長として、宮崎大学の今後について聞かせてくれた。

「2016年、国立大学は3つの重点支援枠にしたがって、機能分化を果たしました。その結果、宮崎大学が選択したのは『地域への貢献』。以降、それがもっとも重要な基本理念としてあります。機能分化の同年には、地域資源創成学部を開設し、研究学科、大学院の再編成もおこないました。それらの体制整備をベースに、地域との連携において具体的な取り組みをかたちにしていく考えです。

宮崎県の経済界とは、『学生の地域定着率を10パーセント上げよう』との目標を共有しています。基幹産業である畜産業界とは、農学部や医学獣医学総合研究科が手を組み、さらなる発展に尽力します。大学研究室と産業界をスムーズにつなぐために設けた、産学・地域連携センターが十分に機能しているのが自慢の一つです。

さまざまな施策が、一歩一歩ですが、着実に前進しているなと実感しています」

若手医師へのメッセージ


医師の社会的役割は、常に最高の成果が求められます。

それに向かって努力する医師としての歩みは、
かけがえのない素晴しいものだと思います。

仕事に誇りをもち、そのことを幸せだと思える
努力をすることを大切にしてください。

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