1. 髙久 史麿 公益社団法人地域医療振興協会 会長・日本医学会連合 名誉会長・東京大学 名誉教授
髙久 史麿 公益社団法人地域医療振興協会 会長 日本医学会連合 名誉会長 東京大学 名誉教授
バックナンバー

髙久 史麿

公益社団法人地域医療振興協会 会長
日本医学会連合 名誉会長
東京大学 名誉教授

縁と運に感謝し、患者さんに慕われることを喜ぶ医師の、
抜擢し育てることを使命とした教育者の横顔。

2004年から2017年まで日本医学会第6代会長を務め、2012年には瑞宝大綬章を受章。
第2代学長でもあった自治医科大学では同大学の開設準備段階から手腕を発揮し、 地域医療の進展に資する人材の輩出に尽力してきたことで知られる髙久史麿氏。
その業績は現在よりもなお、さらに後の世の歴史が評価することになるだろう。
抜擢にこたえる若手の活躍に顔をほころばせる姿は、穏やかで慈愛に満ちている。

プロフィール

髙久 史麿(たかく・ふみまろ)

1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、1972年自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1988年東京大学医学部長。1993年国立国際医療センター(現・国立国際医療研究センター)総長。1996年自治医科大学学長。2004~2017年日本医学会会長。1997年より現在まで公益社団法人地域医療振興協会会長を務める。
1971年に論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受章する。

髙久 史麿(たかく・ふみまろ)

縁と運に感謝
めぐり合わせた医師の道

髙久氏は揺るぎない業績、実績をもつにもかかわらず、訓話や講話に縁薄い人物だ。

「人に語れるほどの大志を掲げて生きてきたわけではありませんし、自己の経験や思想を部下に訓示したこともありません。
振り返れば、人生の9割は縁と運だったと思います。恩師や友人、後輩に恵まれ、引き上げられてきただけのことです」

なにしろ、医師になったいきさつ自体を「たまたま」といった風情で語る。

「湯川秀樹先生のノーベル物理学賞受賞が戦後日本を明るく照らしたせいでしょう、いつしか私は理論物理学への憧れをいだき、将来の目標と考えていました。ところが、旧制高校時代に物理の授業を受けてみると、とてもつまらなかった。この道は自分には向いていないとわかり、進路変更を余儀なくされたのです。理学部以外を考えてみると、線を引いたりする作業は苦手なので工学部はだめ。農学部にも興味をもてないので、残るは医学部。そんな消去法で、進路を決めました」

ちなみに東京大学を選んだのは、都会への憧れだったとのこと。広島の宮島で開かれた全国の高等学校YMCAの会に五高代表で出席した際、東京の学生の洗練された振る舞いに触れ、大いに刺激を受け、「東京で学ぼう」と決心したのだそうだ。

「地元、九州の大学に進むものと考えていた両親も賛成でした」

臨床を充実させるために、猛烈に勉強
患者から慕われる医師となる

入局したのは冲中重雄教授率いる第三内科。通称「冲中内科」。そこで血液内科の道を選ぶ。髙久氏いわく、「当時の第三内科で血液は、亜流でした」とのこと。ただ、その血液グループのチーフは中尾喜久氏。後に自治医科大学の初代学長となった人物で、ともに自治医科大学開設、運営という難事業に取り組むことになる終生の恩師だった。

いきなり終生の大恩人と出会うめぐり合わせは、まさに運だろう。「幸運なだけ」といった謙遜の言葉は、そんなところから発せられているようだ。

また、入局し、常勤医として臨床の現場に出た東大病院では、患者さんとの接点で生来の穏やかさをいかした患者本位の診療を展開した。

「当時の医局は、第一内科が消化器、第二内科が循環器、第三内科が神経内科と専門領域をもっていました。しかし、臨床の現場では全科が全領域をカバーしており、病棟は一般病棟で、どんな疾患の患者さんの主治医になるかはまったくわかりませんでした。知識の追いつかない疾患の患者さんを担当した場合は、専門家に相談しながら責任をもつ体制でしたので、医学部時代の数十倍勉強しながら臨床にあたりました」

患者さんには、とても慕われた。

「患者さんに慕われることは、とても重要だと思います。患者さんや家族の立場になって考える基本を守れば、そうなれるはずです」

東京都文京区本郷にある東大病院の受診者には、上野、浅草といった下町の住民が多かった。

盲腸の手術で東大の外科に入院した患者さんに結核が見つかり、内科に移されて髙久氏が受持ちになった患者さんがいた。その患者さんの奥さんにも結核が見つかり、奥さんが診てくれというので「結核外来を受診したら」と勧めたところ、「亭主と同じ医者に診てもらいたいというのが夫婦の情愛だ」と怒られ、結局、診察することになった夫婦とのその後何十年もの付き合い。外来で「膵臓がん」と診断されて髙久氏が担当するベッドに入院後、単に腎臓が下方にあり、外から触れるだけとわかり、「何でもないですよ、よかったね、退院できますよ」と告げたら、「親戚一同が集まり、水杯をもらって入院してきたのに、どのツラさげて退院できるんだ」と噛みつかれたエピソード──どれもが牧歌的で、人情にあふれ、微笑ましい。それをユーモアたっぷりに語る氏の弁舌には、ついつい引き込まれてしまう。臨床の現場がどれほど温かなものだったか、その場にいあわせたかのように感じ取れた。

シカゴ留学で触れた尊敬すべき価値観
若手を見出し、抜擢する信念

髙久氏の発する言葉には印象深いものが多いが、なかでも際立っているのは「大学教授は誰にチャンスをあたえ、誰を育てたかということで、最終的に評価される」。東大第三内科教授に就任した際に、「私はこれ以上偉くなる必要はなくなった」と思い、「これからは有能な若手を見つけてどんどん登用しよう」と考えたのは、そんな思想の一貫性を表している。この価値観を芽生えさせたのは、どうやら留学経験のようだ。

1962年、EPO(赤血球の造血因子:Erythropoietin)研究のためにシカゴ大学に留学。そこである教授が「私は若い時分に教授に抜擢していただいて、現在がある。私の役目も、力ある若手を見出し、抜擢することだ。それが私の先生に対する恩返しだと考えている」と話すのを聞き、目から鱗が落ちたという。

別の日、シカゴ大学の医学部の学生に個人的に奨学金を出している富豪に招待された夕食の席で、その富豪の息子はアルバイトをしながら別の大学に通っていると聞かされた。理由を聞くと、「息子は、あまりできがよくない。どうせお金を出すならシカゴ大学の医学生に出したほうが、社会的意義がある」とのこと。

「先の教授のお考えも含め、アメリカという国の立派な人物はこんな考え方をするのかと衝撃に近いものがありました」

研究成果に加え……いや、それ以上だったのかもしれない。自身や身内の功名などより、力ある若者を育てることを優先させる価値観との遭遇が、髙久氏の財産になった。ここで得た考えを信念に組み込み、言葉にし、実践してみせたのがその後の氏の医師人生だったのだ。

東大医局の選挙制度改革と
自治医科大学の開校準備からの参加

髙久氏の自叙伝と母の手記で構成された小冊子
『栄光は 輝く門出 五月晴れ 髙久史麿の軌跡』

1982年、前述の「もう偉くなる必要はない」の感慨のもと、第三内科教授になって真っ先に取り組んだのは、医局の選挙制度改革。東大の外から積極的に人材を招き、空気が淀みがちだった環境に風穴を空けた。

「純粋培養を続ける組織は、いつかだめになってしまうものです。ですから私は、外の血を入れ、外の空気を呼び込むことに強い意識をもちました。

たとえば、筑波大学出身の千葉滋先生(現・筑波大学血液内科教授)は、私のそういった方針のもと、第三内科に約20年ぶりに他大学の卒業生を入局させました。その後も何人も他大学の卒業生が入局しています」

時期は前後するが、中尾教授が東大退官後に学長となった自治医科大学新設計画においては、直々の協力要請を引き受け、おもに人材確保で敏腕を振るった。

「開校する1972年には中尾先生にお供して同大学に移籍することが決まっていましたが、開校準備にはその前年から取り組みました。東大の医局長を務めながら、空いた時間に電話をかけまくり、有望な若手を自治医科大学へ誘いました。

この際、思い切って内科は7つに分け、教授ポストを多くする構想を打ち出し、承認していただきました。おかげで、志と能力のある若い先生方に魅力を感じ取っていただけるようになったようです」

後に昭和天皇の執刀医として名を知られることになる消化器外科の森岡恭彦氏は、この折の髙久氏の呼びかけに応じた一人だ。

「力のある若手の動向をリサーチしてみると、東大第一外科ではこの人と真っ先に名前があがったのが森岡先生でした。ぜひ来てほしいと思いましたので、実はもうほかの大学の教授就任が内定していたところに声をかけ、説得するかたちで招聘を実現させました。自治医科大学の理念をお話しすると、大いに共感してくださいました」

また、たとえば現在、国立がん研究センター研究所長を務める間野博行氏は、髙久氏が東大第三内科教授時代に当時西高東低であった内科を盛りかえすため、分子生物学を内科の研究に取り入れたときのメンバーの一人だ。故平井久丸氏をヘッドに据えて、宮園浩平氏(現・東京大学医学部長)、石川冬木氏(現・京都大学大学院生命科学研究科教授)などと研究室を開いた。間野氏はのちに、髙久氏が自治医科大学学長時代に自治医科大学分子病態治療研究センターゲノム機能研究部教授として活躍した人物である。

人材登用に関して、印象深い言葉を発する。

「信用できる人に責任者になってもらったら、仕事は100パーセント任せる。それが大事な点だと思っています」

次世代登用、人材育成の達成感を
ユーモアを交えた話術で表現する

「自治医科大学の卒業生が、日本中で地域医療の担い手として活躍している」との感想を述べると、掛け値なしの笑顔を見せてくれた。「誇りを感じますよね」との問いかけには、「もちろん」と一言。

自治医科大学の地域医療における活躍を語るうえで、髙久氏が会長を務める地域医療振興協会の存在も大きい。

地域医療振興協会(理事長 吉新通康氏)は、自治医科大学の卒業生が中心となって1986年に設立された。2009年12月から公益社団法人となり、現在では、直接運営施設のほか、指定管理者制度によって数多くの自治体医療機関の管理運営に携わり、へき地を中心とした地域保健医療を支えている。

人材の抜擢と育成に情熱を注いだ人物にもかかわらず、謙虚さゆえ、「自らが立役者なり」などと進んで功績を語ってはくれない。ベルツ賞を獲得している血液内科研究者としての歩みを問うと、「亜流だったこの分野に、私の後輩たちから次々に優秀な研究者が出現したことが嬉しい」と話を変えられてしまう。

いずれにしろ、人の上に立つ者としての心得を「まず、ユーモラスであること」と真顔でこたえる泰斗にはかなわない思いでいっぱいである。

最後に、医療界の今後についてのコメントをいただいた。

「都道府県が地元医学部に地域枠を設けて以降、優秀な学生がそちらに流れ、自治医科大学進学者のレベルが下がるのではないかということを耳にしました。少々心配しています。

医療界の今後については、高齢化と高額な薬剤が皆保険制度にとってどれほどの重荷になっていくかが焦眉の問題でしょう。新しい専門医制度の行く末なども、気にかかることの一つでしょうか。とはいえ、私は、私たちの次の世代の皆さんの能力を信じています。日本の医療は時代に即してちゃんと充実していくはずです」

髙久氏のユーモアと達成感にあふれた発言の数々に、得も言われぬ充実感と幸福感に包まれた取材であった。

最新号はデジタルブックで!