1. 安次嶺 馨 沖縄県立中部病院 ハワイ大学卒後医学臨床研修事業団ディレクター
安次嶺 馨 沖縄県立中部病院 ハワイ大学卒後医学臨床研修事業団ディレクター
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安次嶺 馨

沖縄県立中部病院
ハワイ大学卒後医学臨床研修事業団
ディレクター

沖縄の臨床研修に育てられた誇りと、
そのシステムを次世代へつなぐ大任を背負った誇り。
それを胸にする小児科医は今も、
日本の医療の未来のために奮闘している。

沖縄県うるま市宮里には、沖縄県民に長く愛され、 医療関係者の間で「臨床研修の聖地」として知られる沖縄県立中部病院(以下、中部病院)がある。
病院2階に事務所を構えるハワイ大学卒後医学臨床研修事業団は、 臨床研修の原動力ともいえる独自の組織。
その中核を担うポジションであるディレクターを務めるのは、同院第11代院長であり、 同院の臨床研修を修了した第1世代でもある安次嶺馨氏だ。
小児科医としても高名な安次嶺氏は現在、 伝統を引き継ぎ次世代につなぐための静かな奮闘を続けている。

プロフィール

安次嶺 馨(あしみね・かおる)

経歴
  • 1942年 沖縄県那覇市に生まれる
  • 1967年 鳥取大学医学部卒業
  • 1968年 鳥取大学小児科研修医
  • 1969年 沖縄県立中部病院小児科研修医
  • 1971年 シカゴ市マイケル・リース病院小児科研修医
  • 1975年 沖縄県立中部病院小児科医長
  • 1987年 ハワイ大学医学部小児科臨床教授
  • 1996年 沖縄県立中部病院副院長
  • 1999年 琉球大学医学部小児科臨床教授
  • 2003年 沖縄県立中部病院院長
  • 2004年 沖縄県立那覇病院院長
  • 2006年 沖縄県立南部医療センター・ こども医療センター 院長
  • 2008年 同院定年退職
  • 2011年 ハワイ大学卒後医学臨床研修事業団ディレクター

安次嶺 馨(あしみね・かおる)

沖縄県とハワイ大学の特別なえにし
荒廃した医療を立て直すために派遣された、
指導医団に端を発する特別な組織

誇りをもてる医師人生──それを望まぬ医師はいないが、誇りの定義も目標設定も医師免許取得者の数だけかたちが違う。

安次嶺馨氏の場合それは、生まれ故郷の小児医療を支えた誇り、国内最高峰の臨床研修システムに育てられた誇り、そしてそのシステムを次世代へつなぐ大任を背負った誇りということになるだろうか。沖縄県立中部病院──とくに臨床研修の分野で大きな名声を得た同院の、ハワイ大学卒後医学臨床研修事業団ディレクターが現在の肩書きだ。

「通算で私は8代目。歴代アメリカ人が務めていたディレクターを初めて日本人で担ったのが第7代ディレクターの真栄城優夫まえしろまさお先生(中部病院第10代院長)で、私はその任を2011年に引き継ぎました」

中部病院2階、管理部門の一角に設けられたハワイ大学事務所が現在の職場。うかつに受け止めると名誉職と理解しかねない、聞き慣れない役職だが、さにあらず。今も医療行政と医療現場の狭間に立ち、医師育成の仕組みを充実させるために奮闘している。詳しくは後述するが、それは、日本の医療の未来を左右する活動ともいえる闘いだ。

「ハワイ大学卒後医学臨床研修事業団(以下、事業団)は、戦争で荒廃した医療を立て直すために米軍占領下の沖縄で始まった独自の臨床研修の象徴といえる組織。ハワイ大学がアメリカ国務省および国防省と契約を結び、当時の琉球政府の求めに応じて中部病院に指導医団を派遣したのが始まりです」

サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たした後も引き続き米軍占領下であった沖縄は、日本の医療制度に組み入れられることはなく、日本の医師育成システムからも引き剥がされた。本土で急速に進む戦後復興から取り残された沖縄の医療を立て直すには、アメリカの力が必要であり、それを引き受けたのがハワイ大学だった。

「1980〜90年代に注目を浴び、日本中から志ある研修医を集めた『中部病院の臨床研修』とはつまり、事業団が提供するプログラムを中心に置いた研修です。占領下ゆえに日本の制度に参加できないという事情があってのことでしたが、結果的に、日本にありながらアメリカの、最先端の臨床研修を受けられる場が沖縄に育ったわけです。注目され、人気となったのは必然だったといっていいでしょう。本土の方の目には『同じ南の島』程度にしか映らないかもしれませんが、沖縄の医療にとってハワイは特別なアイコンであり、ハワイ大学は特別な感情をいだく学府なのです」

存亡の危機に瀕しても怯まず、揺るがず
今も最善で最良の臨床研修プログラムを

沖縄県立中部病院。2階にハワイ大学卒後医学臨床研修事業団の事務所がある。

事業団にはこれまで、大きなものだけでも2度の存亡の危機があった。1度目は沖縄の本土復帰の際、2度目は2004年の臨床研修必修化の際だ。前者は本土の制度に合わせるのにハワイ大学のプログラムは邪魔だとの意見を、後者は新しい研修制度があれば事業団は不要との意見を生んだ。そのたびに、ディレクターをはじめ関係者が奮闘し、事業団とプログラムを守ってきた。

「現在は沖縄県が事業団運営に予算を割いているのですが、大きな流れとしてその額は絞られてきています。削減を踏みとどめるために、2年ごとの契約更改時に県との折衝に汗を流すのもディレクターの重要な仕事です」

奮闘は、もう一つある。

「プログラムをより良く、より意義あるものに高める努力。こちらのほうが本来的なディレクターのミッションですね。ハワイ大学を通して、全米に網を打ち、優秀な講師、優れたノウハウをすくい上げられるのが事業団の特色。日々情報を集め、より良い選択をし、プログラムを組み上げる作業を続けています。

日本の若手医師がガラパゴス化、つまり国の外に目を向けなくなりつつあるという傾向が生まれているようですが、中部病院にそれはありません。目をギラギラさせた研修医が、機会を逃さず留学し、学ぼうと虎視眈々です。事業団のプログラムを通して、アメリカやハワイ大学を身近に感じている環境が大きいのではないでしょうか」

なんとなく医師になり、なんとなく小児科医になった青年は
故郷に戻って医師としての目を開かされた

1953年、占領下の沖縄の若者が、琉球政府の援助を受ける国費留学生として日本本土の医学部で学ぶ制度が始まった。那覇市に生まれ育った安次嶺氏は1961年、鳥取大学医学部へ留学。ただし、自費での留学だった。

「自費留学なので帰郷の義務がなかったためでしょうか、あまり熱心に勉強する医学生ではありませんでした。なんとなく流され、なんとなく東京でインターンを務め、なんとなく母校医局に所属、なんとなく小児科に進みました。1969年に沖縄に戻ったのも、なんとなく『沖縄で勤務医になろうか』と考えてのことでした」

数少ない選択肢から選んだ結果、勤務することになったのが中部病院だった。

「私の赴任する2年前、1967年に事業団のプログラムが稼働を始めていたので、1期生はつまり、私の同期です。私が東京でインターン生活に入った4月と同時期、ここで臨床研修を開始していた彼らの実力は、2年を経て、私がまったくおよばないものになっていました。ショックでした」

そこで、目が開けたのだという。

「一緒に研修を受けるのは、2年下の後輩たち。彼らに負けていられない。一番にならなければと心に決め、生まれて初めて本気で勉強しました」

以降、邁進が止まることはなかった。本気で勉強し、アメリカ/シカゴへの留学を終えて中部病院に戻った時には、小児科医長を任されるまでになっていた。

「闘う小児科医」を自称し、発信し、やがて中部病院院長に
ところが、たった1年で辞することに

中部病院のユニークな歴史の記録と記憶を描いた安次嶺氏の著書『良医の水脈 沖縄県立中部病院の群像』(ボーダーインク)

1980年代には臨床研修で名を馳せることになる沖縄県だが、それ以前、60年代、70年代は明らかに医療が立ち遅れていた。県民は、病を得ることや怪我をすることに恐れおののいて暮らしていた。なかでも小児医療はひどかった。

「とくに、新生児医療はないに等しかった。呼吸障害のある未熟児は、皆死にました。助けようがない。なにしろ新生児用のレスピレーター一つないのですから」

そんななかで安次嶺氏の奮闘が続く。それは実を結び、1978年に念願の新生児ICUが開設に至った。沖縄の小児医療が少しずつ質を上げるにしたがい、「中部病院に小児科あり。中部病院の小児科に安次嶺あり」と認められるようになった。そして安次嶺氏自身も、「闘う小児科医」を自称し、沖縄のみならず全国に向けて小児科医療のあるべき姿についての発言、発信をするようになっていった。

「小児科医たちが日陰の立ち位置に甘んじた結果、保険点数までが不当に低く抑えられる状況となっていることに問題を感じました。次の時代により良い小児医療を引き継ぐためにも声を大きくし、積極的に行動しなければならない。そんな思いが、『闘う小児科医』という言葉に昇華したのです」

やがて「闘う小児科医」は中部病院の院長を任されるに至る。2003年のことだ。

「医師としての目を開かせ、34年間私を支えてくれた病院に恩返しができると意気込んでの院長就任でした。しかし、なんと、1年で辞めなければならなった。もちろん、私もびっくりしましたが、それ以上に周囲が驚いていたのを覚えています」

県立病院リニューアル計画への患者団体の申し入れ
という難局を乗り切る期待を一身に受け
計画の中心に立った

沖縄県立南部医療センター・こども医療センターの近くには、離島や遠方から治療・入院する病児と家族が滞在できるファミリーハウス「がじゅまるの家」がある。この施設は「わらびの会」のはたらきかけで利用開始された。

県から舞い込んだ要請は、那覇市にある県立那覇病院の院長就任だった。

「同院のリニューアル計画があるのは知っていましたし、計画当初の『高度・多機能病院へ』という方向性に、『心疾患を担える小児医療を』が加えられたのも知っていました。小児医療に関するアドバイスを発していたのは私自身でしたから。ただ、その計画の中心に自分が立つことになるとは夢にも思っていませんでした。行政サイドも私の戸惑いに誠意ある対応を見せてくれました。文字どおり、不測の事態だったのでしょう。けん責などではなく、期待があっての人事だとわかりましたので、打診された翌日には受託の決意をしていました」

そして2年間の準備期間を経て誕生したのが、沖縄県立南部医療センター・こども医療センター。初代院長にはもちろん安次嶺氏が就任した。当人が笑いながら語る。

「わずか5年間に3つの病院の院長を務め、定年退職していった者は、県立病院史上、後にも先にも私だけでしょう。稀有な体験をしたと、少々自負しているところです」

ほかに例のないほど長い病院名から、その設立に紆余曲折があったことがうかがい知れる。

「県が立てた構想に、患者団体が意見を言い、それを飲み込むかたちで着地したプロジェクトです。病院名にその経緯が反映されているのは、私は良いことだと思い、院長として、長い名称に賛成しました。独自の医療を確立させ、特徴的な名称も含め、沖縄の医療の象徴の一つにすべきだと考えました」

患者団体とは「NPO法人こども医療支援 わらびの会」(以下、わらびの会)で、県に意見を申し入れる際、県内20万人から得た署名を提出したとのこと。

「私は『わらびの会』の皆さんの切実な要望に心打たれ、20万人署名を達成してから提出するという地に足の着いた手法に感嘆しました。こういうプロセスで医療が前進するのは、讃えられるべきです」

患者団体が医療行政にはたらきかけをする際、必要以上の圧力や軋轢を生む不幸な事例も多い。しかし、「わらびの会」のそれは、明らかに正の遺産を得たようだ。院長の安次嶺氏は、新病院の設計図面に「わらびの会」の事務局用のスペースを加えて賛同の意をかたちにして見せた。

同会に志ある牽引者がいればこそ、そして行政側にその活動の真意を受け止める器があればこそ。どちらが欠けていても成立しなかったであろう事案の、受け止める側の器とはつまり安次嶺氏だったのだと思う。

「医療人と市民が同じ方向を歩んできたのが沖縄の医療です。長い間、沖縄県民は劣悪な医療環境に涙し、少しでも良い医療を享受したいと願い続けましたが、決して行政に対して攻撃的になったり、医療人を悪しざまに言ったりはしませんでした。

医療資源が乏しいなか、医療を提供する側も血の汗を流しているのだとよく理解してくれていたからです。

一方的に『よこせ』と主張し、享受した後はそれが当然だと思い込む。沖縄の医療の歴史には、そういう風景はありませんでした。医療人も市民も、同じ苦労を共有した連帯感を持ち合わせているのは、他の都道府県にはない、独特の状況かもしれません」

整然とそう解説する安次嶺氏に首肯しながら、その言葉を紡いでいる人物の感受性の豊かさに静かに感銘を受けていた。

時には怒号も飛び交うであろう臨床の最前線に立ちながら、故郷の医療の本質をここまで冷静に、正確に、前向きに把握していた知性こそが讃えられるべきではないだろうかとも思った。

2004年に必修化された臨床研修制度の定着で
沖縄の地位は相対的に低下したが……

人の営みを歴史として振り返る作業は、国や、組織や、制度の栄枯盛衰を知る作業なのかもしれない。一世を風靡した沖縄の臨床研修制度に一時ほどの輝きを感じなくなった背景には、2004年度に必修化された臨床研修制度があるのは論をまたないだろう。一説に、同制度は中部病院の研修制度を分析し尽くして構築されたといわれる。

「新制度以降、中部病院の臨床研修、沖縄の臨床研修の地位が相対的に低下したのは事実です。でも、それは喜ぶべきことではないですか。本土にも、評判を呼ぶ研修プログラムをもつ医療機関がいくつも誕生したのは、日本の医師育成システムの進化を意味するのですから。ネガティブにいえば、国が私たちの制度を真似したとなりますか。でも、ポジティブにいえば、沖縄のような田舎から、国の医療を良くする成果を発信した画期的な事象です」

新制度のもとでは、中部病院も他の医療機関とまったく同列に並び、マッチング協議会を通して研修医を確保している。制度の生みの親ゆえの特別待遇が一切ないことに、部外者のほうが違和感をもつほどだ。

「それで、いいじゃないですか。中部病院も参加病院の一つとして、一生懸命頑張って、制度そのものの成長に寄与できるならこれほどの喜びはありません」

少し微笑んで、言葉が続いた。

「ただ、初期臨床研修の肝になる屋根瓦(先輩が後輩を導く、研修医間のつながり)がちゃんとできあがっている医療機関はいくつあるでしょう。事業団が強力にサポートして中部病院の臨床研修を育みましたが、この体制について真剣に学んでいる医療機関はいくつあるでしょう。厚労省は、制度を作ってひと安心してはいないでしょうか。

私は、臨床研修制度は国をあげて、関係者全員が切磋琢磨することで前進すると信じています。ですから、私たちは決して研鑽を止めるつもりはありません。制度が骨抜きになったり、本土の医療機関に油断が生まれたりすれば、またいつか、沖縄県や中部病院が突出する時代が来るのかもしれませんよ」

これは、不敵な笑みではない、達成者の凄みなのだと感じた。前述した、「日本の医療の未来を左右する活動」とはこれである。数年先、数十年先に再び沖縄が医師育成の震源地になっても、まったく不思議はない。結果的に、日本の医療の質を高めることに貢献していることになる。占領下の沖縄で生まれた臨床研修制度がそうだったように。

より良い医師を、より多く輩出することに信念をもった人々の営みは、時代のうねりなどに押しつぶされたりはしないということだろう。

1942年生まれの熟達の医師は、虚像とは真逆の、努力の先にしか結ばない実像の上に両足を置いている。なんと羨ましい風景だろうと思った。

若手医師へのメッセージ


井の中の蛙にだけは、なってほしくないですね。

出ていく先はアメリカである必要はないと思います。

たとえば、東アジア、東南アジアの医学も、医療も、医療人にも学ぶべきことは山ほどありますよ。

足を運んでみればわかりますが、度肝を抜かれるほどの刺激を受けます。

外に出て、いろいろな成果をもち帰って、日本の医療を少しでも良くしてほしい。

それが、私から若手の皆さんへのお願いです。

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