1. 稲垣 暢也 京都大学医学部附属病院 病院長
稲垣 暢也 京都大学医学部附属病院 病院長・京都大学大学院医学研究科 糖尿病・内分泌・栄養内科学 教授
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稲垣 暢也

京都大学医学部附属病院 病院長
京都大学大学院医学研究科
糖尿病・内分泌・栄養内科学 教授

医師冥利と思う。
病院長として、糖尿病の臨床家として、研究者として、
全力投球の日々を過ごす。

2015年4月、稲垣暢也が京都大学医学部附属病院(以下、京都大学病院)の第40代病院長に就任した。
先進医療はもとより医療安全、医療の質、地域医療連携などでも常に日本の医療をリードし、 地域住民からの信頼を揺るぎないものとしている同院が、今後どのような発展を果たすかがその双肩に委ねられたことになる。 長く糖尿病医療に取り組み、臨床はもとより、基礎研究の分野でも大きな功績を残した内科医が発揮する、リーダーシップとガバナンスの手腕に大きな注目が集まっている。

プロフィール

稲垣 暢也(いながき のぶや)

経歴
  • 1984年 3月 京都大学医学部卒業
  • 1984年 6月 京都大学医学部附属病院 内科研修医
  • 1985年 6月 田附興風会北野病院 内科研修医
  • 1986年 6月 田附興風会北野病院 内科医員
  • 1987年 4月 京都大学大学院医学研究科博士課程(内科系)入学
  • 1992年 1月 同上 修了
  • 1992年 3月 千葉大学医学部附属高次機能制御研究センター発達生理分野 助手
  • 1995年 6月 同上 講師
  • 1996年 11月 同上 助教授
  • 1997年 9月 秋田大学医学部生理学第一講座 教授
  • 2005年 4月 京都大学大学院医学研究科糖尿病・栄養内科学 教授(現職
  • (2013年 9月 内科学講座再編により糖尿病・内分泌・栄養内科学と改称
  • 2015年 4月 京都大学医学部附属病院 病院長(併任)
〈学会などの活動〉

日本糖尿病学会常務理事
日本病態栄養学会理事
日本内分泌学会理事
日本糖尿病肥満動物学会常務理事
日本糖尿病合併症学会理事
日本糖尿病協会理事
全国医学部長・病院長会議理事・副会長
日本内科学会評議員
日本再生医療学会評議員
日本生理学会評議員
日本生化学会評議員など

稲垣 暢也(いながき のぶや)

母親の乳がん発症がきっかけ
手に職のつく仕事でもある医師をめざす


小学校の卒業式にて母親と。稲垣が6歳の時、
乳がんの手術がおこなわれた。

小学生の頃には、医師になることを決めていたとのこと。大きなきっかけのひとつは、母親の乳がん発症だった。

「私は6歳でしたが、大きな衝撃を受けたのを今でもよく覚えています。診断された翌日には、摘出手術。幸いにして再発することなく、結局87年の人生をまっとうしてくれましたが、手術後10年間は再発の恐怖に家族全員が怯えていました。
病気の怖さを感じて育ったせいで、そういったものと向き合う仕事への興味が自然に身についたように思います」

もうひとつ、重要な動機があるそうだ。

「手に職のつく仕事がいいと思いました。会社の事情に左右されずに生きられる人生に、憧れたのです」

銀行員であった父親の背中を眺め、思うところがあったのだろう。ただ、その年齢で医師を「手に職のつく仕事」のひとつに数える感覚は、かなりユニークではないだろうか。

内科に感じた医学の基本の魅力
人との出会いが導いた糖尿病への邁進

京都大学医学部で学ぶなかで、医師としての目標も具体性を帯びていった。

「内科医に魅力を感じました。患者さんの全身を診るという意味で医学の基本といえる領域である点、全臓器を広く横断的に見渡して治療する点、そして治療する目と、疾患の原因を探り新たな治療法を開発する目とを併せ持つことを求められる、つまり臨床と基礎研究がすぐ近くにある点にやり甲斐を感じました」

めざすべきフィールドは内科と決まったが、さらに具体的に診療科を選択する段では、決断は容易でなかった。

「ずいぶんと深く、長く悩んだと記憶していますが、最後は人との出会いが決めてくれました」

出会ったのは、尊敬する先輩であり師である清野裕氏(糖尿病・栄養内科学初代教授/本シリーズ第11回に登場)。

「たしか、1983年だったと思います。まだ医学生だった私に、第二内科助手の清野先生が、『糖尿病はこれから間違いなく増える。やってみないか』と勧めてくださいました」

2010年代の現在、日本の糖尿病患者数は1000万人と推定されている。約30年前には、その数値は100万前後であった。

「推定患者数の数値は、イコール国民の関心度と言っていいでしょう。当時は、今とは比べようがないくらい糖尿病への関心、認知は低かったのですよ。
糖尿病は、たとえば白血病の患者さんを救うとか、カテーテルを駆使して心臓病を治すとかに代表されるような、際立った活躍のイメージを持ちづらい疾患でした。
ですから、清野先生の未来予測には半信半疑で頷いていたのが正直なところでした」

出会いを信じ、京都大学医学部第二内科(後の、内分泌代謝内科)に入局を決断。糖尿病への取り組みを開始した。

活気と発展を体感できた30年
充実した時代への感謝の念


第50回 エルウィン・フォン・ベルツ賞授賞式。
左から清野進氏、稲垣、山田祐一郎氏、清野裕氏。

結論から言えば、清野氏は見事に現代を予見していた。

「患者数は100万人が30年で1000万人に。終戦直後から数えれば、40倍になったという見解もあります。ひとえに、日本人の食生活の変容と運動不足が招いた事態でしょう」

彼が糖尿病を選んだのにはもうひとつ、理由がある。それは、内科を志した動機「臨床と基礎研究がすぐ近くに」の叶うフィールドであったことだ。

「医学部を卒業して最初に、清野先生のもとで取り組んだ研究がインクレチンでした」

インクレチンは2009年に初めての関連薬が上市されて以降、瞬く間に日本の糖尿病医療に欠かせないものとなった。インスリンの発見から約1年でインスリン関連薬が登場したのに対し、インクレチンの発見から糖尿病治療への応用には約1世紀を要しており、言うなれば「遅れてきたエース」のような存在だ。

1900年代初頭にはインクレチン効果が発見され、成分も精製されていたが、長く研究が停滞していたこの分野に注目したのが、清野裕氏。1970年代のこと。その指揮のもと研究を大きく前進させたのが、弟の清野進氏、稲垣、稲垣と大学院同期の山田祐一郎氏らの京都大学の一門であった。消化管因子であるインクレチンによるインスリン分泌の分子基盤を確立し、インスリン分泌におけるグルコースとインクレチンの相互作用やインクレチンによる膵外作用を解明するとともに、糖尿病におけるインクレチンの役割を明らかにした。これらの成果によりインクレチン関連薬の臨床医学が切りひらいた業績は、現在、極めて高く評価されている。2013年には、4氏が伝統あるエルウィン・フォン・ベルツ賞1等賞を受賞している。

「研究に取り組み始めた頃、インクレチンがこれほど糖尿病治療薬として活躍するとは思いもしませんでしたから、現在の状況に関しては本当に感慨深いものがあります。
糖尿病分野に身を投じ、臨床に関しても、基礎研究に関しても、ものすごい活気と発展を体験できた30年でした。充実した時代を走らせてもらえたという感謝の気持ちに堪えません」

基礎研究に没頭した13年を過ごした後、
臨床家として本領発揮する機会を得る

1992年、京都大学大学院を修了すると同時に、千葉大学医学部附属高次機能制御研究センター発達生理分野の助手となる。

ここから、基礎研究に没頭する日々が始まる。

「千葉大学では、アメリカから帰国した清野進先生の教室の立ち上げに参加。非常に刺激的な日々を過ごしながら、私の本格的な基礎医学での歩みがスタートしました。
そして、この教室で取り組んだSU(スルホニル尿素)薬の機序に関する研究が認められ、1997年、秋田大学に招聘されました」

秋田大学では、生理学講座教授として7年間の研究生活を過ごした。

「千葉大学と秋田大学での計13年間では、昂奮のやまない仕事をいくつもさせてもらえました。それはまた、臨床からは離れ、基礎研究に没頭した日々でもあります。ただ、私は『臨床好き』な医学者です。この時代は、大きな充実感と同時に臨床への欲求をかかえて過ごしていたことも事実なのです」

2005年に清野裕氏の後任として京都大学大学院医学研究科糖尿病・栄養内科学(当時)教授に就任した際は、臨床への回帰が果たせ、勇躍する心を抑えられなかったのではないだろうか。

ちなみに、基礎医学の教授を務めた人物が臨床医学の教授へと戻るケースはとても稀と聞く。

「現在の、外来を担当し、回診をし、基礎研究もするという生活は、やはり、私には理想的ですね」

任期3年の病院長職に注力する
教授職併任で遂行するための執行部体制


2015年に病院長に就任。1年を振り返って、ひと言。

「目の回るような、多忙な1年でした」

そんな病院長職だが、日常の多くは病院長室ではなく、教授室で過ごすという。事前に組まれたタイムスケジュールに従って、在席すべき時に病院長室に足を運ぶというスタイルだ。

「この行動様式は、歴代の病院長が同じくする伝統のようなものです。当院の病院長職が教授職との併任であることが大きな理由です。任期は1期3年。再任のケースでも最大でプラス1年という内規。つまり、短期間に集中して仕事をこなし、次の世代に引き継ぐ病院長なのです。
病院長が短期政権な分、それを支える執行部の充実が求められます。私の場合も、副病院長4名、病院長補佐6名体制の執行部が仕事を支えてくれています。私自身、病院長補佐を3年、副病院長を4年務めた後の病院長就任です。そうすると、10年にわたって病院経営に参画することになります。かなりじっくりと修業して、満を持して3年間の使命を果たす仕組みなのです。
しっかりとした執行部を背景としつつ、求められる局面で強いリーダーシップを発揮し、ガバナンスを機能させる。それが、当院の病院長に求められる責任なのだと自覚しています」

現場の声が届かなくては病院長は務まらない
外来を持ち、回診し、常に耳を傾ける


2015年12月には敷地南側にヘリポートを備えた8階建ての南病棟が竣工し、生活習慣病を中心とした病棟として稼働を開始。2019年には北側に、急性期病棟を中心とした8階建ての新しい病棟が竣工することになっている。その後も北病棟の改修が控え、今後数年にわたって着々と環境整備が進む予定の京都大学病院。

躍進の旗振りを任された稲垣は、週に1回の外来担当や回診といった診療活動へのこだわりを、病院長の大任成就に欠かせないファクターと位置づけている。

「どちらなのかと問われれば、明らかに『威厳より親しみを感じてほしいタイプ』の病院長です。
また、病院長というものが現場の声の届かないポジションになってしまっては、結局のところ職務遂行はできないというのが私の信念です。ですから、常に接点を持ち、臨床の現場で患者さんの声をリアルに聞き、感じていたいと考えています。
所信を尋ねられた際に、いつも意識して『患者さん目線に立った』という言葉を使っているのはそのためです」

病院長就任1年を経て、得た実感があるという。

「退任後には、どうしてもないがしろになりがちだった教授職に専念する生活に戻るわけですが、病院の顔として権限と責任を持たされた経験が教室運営にも、研究にも、そして臨床にも必ず生きるはずです。
最近、過去に同じプロセスを歩まれた先輩方の気持ちや心象風景がわかってきた気がします。私も、ひと回りも、ふた回りも大きな医療人となって、伝統ある講座の発展に尽くしていけると確信しています」

日本で唯 一、「栄養」をいただく糖尿病講座
その誇りを受け継ぎ、次の時代へ



南病棟7階の糖尿病・内分泌・栄養内科エリアには、
運動療法専門の部屋も備えられている(上)。
教育入院での栄養指導で、
今日も多くの患者が行動変容を見せることだろう。

話題が糖尿病・内分泌・栄養内科学講座の歴史に及んだ。日本でも唯一、名称に「糖尿病」と並んで「栄養」をいただく講座。現在では常識となっている、糖尿病医療と栄養学との切っても切り離せない関係を表していることが目をひく。

「京都大学病院では早くから栄養治療の大切さに気づいていて1933(昭和8)年には食餌療法研究室が誕生し、1938年に栄養治療室に発展。すでにこの時、医師と栄養士の協働が始まっています。栄養治療室は1960年から外来も持つようになり、1996年には病態代謝栄養学講座が編成され、2003年に糖尿病・栄養内科学講座に改称されました。

私が入局した第二内科は1997年に臨床病態医科学講座となり、2005年には内分泌代謝内科学講座と改称しました。その後、2013年に糖尿病・栄養内科学講座と内分泌・代謝内科学講座が統合する形で、現在の糖尿病・内分泌・栄養内科学講座が誕生したのです」

昭和8年にさかのぼる先見の明への驚きと、講座の変遷の妙に感想を述べると破顔して軽妙に、言葉を返してくれた。

「成り立ちが複雑でしょう。でも、誇るべき歴史と言えますよね。しかも、私の入局した第二内科の教授と考えると私は、8代目。清野裕先生が築いた糖尿病・栄養内科学を引き継いだと考えると2代目。どちらを名乗ってもそれぞれに違う誇りを感じられます」

権威主義とは対極にあるナチュラルな立ち居振る舞いが印象的な若き病院長が、先達への憧憬を込めて「誇り」を口にしてみせる姿は微笑ましくさえあった。

* * *

最後に糖尿病医療の未来について聞いた。

「良い薬剤がいくつも生まれ、治療法も年々充実しており、この疾患との闘いには比較的明るい未来がひらけているというのが私の見解です。今後の課題としては予防の増進と、治療を受けていない患者数の低減があります。そのための啓発活動がより重視されることになると考えています。
ただ、忘れてはならない点がひとつあります。実は、糖尿病は、なぜ発症するかのメカニズムの全容がいまだ解明されていないのです。研究者にはその解明にこれまで以上にがんばっていただきたいですし、臨床医には『最新エビデンスにもとづく糖尿病医療の実践』が求められます。
いずれにしろ、私たち医師にはまだまだ多くの課題と追求すべき目標が数多く残る、魅力にあふれる分野であることだけはたしかです」

若手医師へのメッセージ

ここまで診療と研究の話題を中心に話をしましたが、実は、私がもっともやり甲斐を感じるのは、若手を育てることです。

彼らの成長を見守っている時、彼らと同じ時間を過ごす自分自身が一 緒に成長している実感を持てるからです。

私が彼らに向けて発している言葉は、いつもひとつです。
「とにかく、チャレンジしなさい」

臨床でも、研究でも、「不可能なことは何もない」という心づもりで、
勇気を持ってチャレンジし続けてほしいと願っています。

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