1. 佐野 俊二 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科心臓血管外科教授
佐野 俊二 学校法人 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科心臓血管外科教授
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佐野 俊二

岡山大学大学院
医歯薬学総合研究科
心臓血管外科教授

天才的小児心臓外科医は、
未来を信じる心臓血管外科教授になった。
名声さえ振り切る疾走は、今も止まない。

それまで3 割程度であった先天性心疾患/
左心低形成症候群の生存率を、
一気に9 割にまで引き上げた立役者。
しかし、彼は、決して過去の業績などに胡座をかかない。
「追い求める」ために常に疾走し、
トップスピードで前進しつづけるのが唯一の流儀だ。
齢60 を過ぎてもなお、足の運びを緩めず、毀誉褒貶を意に介さず、
瞳の奥をきらつかせている天才の現在位置を確かめてみた。

プロフィール

佐野 俊二(さの しゅんじ)

経歴
  • 1952年 広島県に生まれる
  • 1977年 岡山大学医学部卒業
  • 1982年 岡山大学大学院医学研究科卒業
    兵庫県立尼崎病院心臓血管外科副医長
  • 1985年 ニュージーランド/
    Green Lane Hospital(Auckland University Medical Schoolの
    胸部心臓血管部門専門病院)においてSenior Registrar
  • 1987年 オーストラリア/
    Royal Children's Hospital(Melbourne University MedicalSchool の
    小児専門病院)においてSenior Fellow
  • 1988年 Royal Children's Hospital においてConsultant Cardiac Surgeon
  • 1990年 岡山大学医学部第2 外科助手
  • 1991年 岡山大学医学部心臓血管外科助手
  • 1993年 岡山大学医学部心臓血管外科教授
  • 2001年 岡山大学大学院医歯学総合研究科心臓血管外科教授
  • 2002年 岡山大学医学部附属病院副病院長、
    昭和大学横浜市北部病院循環器センター循環器科客員教授
  • 2005年 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科心臓血管外科教授
所属学会等

日本外科学会(評議員)、アメリカ胸部外科学会会員(AATS、STS)、
ヨーロッパ胸部外科学会会員(EACTS)、
日本心臓血管外科学会(理事、評議員)、
日本胸部外科学会(評議員、理事、会長)、日本循環器学会(評議員)、
日本小児循環器学会(理事、会長)、アジア胸部心臓血管外科学会(council)、
その他多数

佐野 俊二(さの しゅんじ)

第一人者に押しかけ入門し、海を渡る
高精度を要求される小児心臓外科へ邁進する


手術に臨むときは木靴を履く。

佐野俊二という名の外科医が岡山大学医学部を舞台に腕を振るっている事実は、TVを含めた各種媒体で何度もとりあげられ、すでに広く知られている。

彼の疾走が顕在化したのは1985年だと、定説にして間違いないだろう。心臓血管外科医としての腕を磨くために、当時の第一人者、バレット・ボイス教授(オークランド大学)に師事すると決め、ニュージーランドに単身留学した。ただ、「師事する」はあまりに穏やかな表現で、その実は、押しかけ入門だった。

「なんのつてもなかったので、学会で台湾にいらしているときに、押しかけましたが、ほとんど門前払いに近い状態。でも、3日間通いつづけたら話を聞いてもらえ、ついには受け入れていただけました。

後に質問してみると、『紹介状も持たずに私を訪ねてきたのは、君が初めてだった。受け入れの理由は、それだけで十分だった』と面白そうに振り返ってくださいました」

師匠のもと、胸部心臓血管部門専門病院であるGreen Lane Hospitalで、来る日も来る日も手術に明け暮れる修行の日々を過ごす。2年目には日本人初のチーフレジデントとなり、心臓以外の手術も含めれば1000例以上を経験した。同院の研修を終えるとオーストラリアに渡り、兄弟子であり、ふたり目の恩師である小児心臓外科医/ロジャー・ミー教授(メルボルン大学)をボスと仰いでさらなる修練を重ねた。1988年には同教授の抜擢によりRoyal Children's HospitalにConsultant Cardiac Surgeonの職を得る。

渡豪時にはすでに、彼の専門領域は小児に絞られていた。動機は、明快だ。成人よりも小さな小児の心臓は、より高度な技術の求められるハイレベルなフィールドだったからだ。

佐野の名を一躍世に知らしめた疾患は、左心低形成症候群だろう。左心房、左心室および左心室から出ている大動脈に十分な大きさがない状態で、1980年代にノーウッド手術が誕生するまでは、望みのない致死的な先天性心疾患とされていた。ノーウッド手術が定着してもなお3割程度であった生存率を、一気に9割に引き上げたのが1998年に彼が開発した、直接心臓に穴を開ける独自の技術だ。その技術は後に、「SANOシャント(あるいは、SANO術)」と呼ばれるようになった。

帰国し、母校で小児心臓外科のフィールドを開拓
若干41歳で心臓血管外科教授となる

次なる疾走は、帰国後。海の向こうで小児心臓外科の技術を身につけるとはつまり、いつしか民間病院に引き抜かれ、巨万の富を約束されることを意味する。彼の目の前にもその道が開けていたが、1990年にあっさりと帰国してしまった。

「帰国要請が母校からでなければ、海を渡った先はアメリカだったでしょう」

意気に感じて帰国するも、岡山大学医学部に用意されていたのは教授でも助教授でも講師でもなく助手のポストだったが、腐ることなく臨床での奮戦を開始する。そして2年後、彼が助手として疾走中である事実が白日のもとになる。助教授以下十数名いるスタッフの、下から何番目かの立場だった弱冠40歳が、勇躍、心臓血管外科教授選挙に打って出ることになったのだ。

実は彼は、帰国したその日から疾走していた。古い価値観の勢力と戦いながら、大学病院では稀な、深夜でも急患の手術を行える風土をつくっていった。

それまで小児科は循環器外科である第2外科に患者をまわさなかったのだが、その理由が手術への不信感だと見抜くと、自らの手で難病手術の成功例をつくってみせた。つづいて、国立大学では例のない小児心臓手術のスペシャルチームを編成し、受け入れ体制整備と人材育成の方策を示す。それらの施策が次々に成果をあげ、学部内に評価が形成されていった。そしていつしか、「佐野俊二を教授に」と考える人が、出馬を促すために80人以上結集したのだ。

ボトムアップによる出馬は翌年、41歳の若々しい教授を誕生させた。

ところで、彼の、母校を舞台にした奮闘と疾走には、明らかな理由があった。

「日本の医療界には、日本だけの特異な状況がいくつもあります。そのひとつが、外科技術の最高峰が大学病院にないこと。大学の医学の力点が基礎研究に偏っていて、外科の生命線である症例数が少ないためです。
海外では、大学病院にこそ症例が集まり、大学にいる医師がいちばんうまい。日本もそういったスタンダードに追いつかねばならないと思いました。循環器という分野が、日本の学閥崩壊、システム変革の先頭を切っていくと確信していました」

次々に打ち出す改革の施策
やがて、全国から難病患者が集まる施設に




手術室には最新機材と最良の環境を整えている。
壁には後楽園などの四季の写真も。

佐野教授は次々と改革を進めた。まず、主治医という考え方をなくした。患者への医療サービス提供は、チームで果たすべき。主治医がいないと何も動かないのは、非効率で無意味なことだからだ。術前のインフォームドコンセントは平日のみとし、医師に週末の休みをしっかりととらせることとした。患者家族がいつでもICUに入ることを許した。

人材育成の根幹に、海外留学を据えた。志があり、素質もある若手医師の海外渡航は積極的に応援する。しかも佐野は、それらが有給の留学であることにこだわる。

「給料は、派遣者の生活のためではなく、勉強のためにこだわっていること。『給料をやっているのだから働け!』と尻を叩かれるのは、学ぶ者にとって何よりの環境なのです」

佐野自身が直接派遣先と接触し交渉する留学のスキームは、現在も営々とつづいている。

そして、そのような改革の成果として日本全国はおろか、世界中から心臓に難病を抱えた小児患者が集まるようになった。

2002年に日本循環器学会誌に発表された統計によると、心臓病で生まれてきた子どもの死亡率は、中国四国地方が全国で一番低いという結果になったという。その成果の一端を岡山大学が担っていたのは想像に難くない。

2002年からは岡山大学病院副院長も引き受け、臨床の現場の改革をさらに強力に推し進めていく。その集大成とも言えるのが、2008年に完成した地上11階・地下1階の新病棟(東Ⅱ病棟)だろう。東3階CCU、ICUは中央診療棟4階のCCU、ICUと並び、循環器のみならず一般の外科系重症患者も受け入れる専用の集中治療室で個室18床が配置される。また、東2階には小児病棟外科(28床+PICU8床)が配置されている。この2フロアは、佐野自身の手による設計となっている。

「一般的な病院のICUは幅3mがスタンダードですが、それではベッドの周りに集まった複数のスタッフがスムーズに作業を展開できません。私は、担当フロアのICUを幅4.5mの規格としました。他のフロアと見比べると、一目でまったく違った空間となっているのがわかるはずです」

医局とは別に担当医の控え室や男女別の控え室を設けるなど、医師視線に立った機能的なアイデアもそこここに盛り込まれている。今でも外部からの見学者が、毎日のように足を運んでいるという。

再生医療、シミュレーションシステム、国際貢献
好奇心と疾走はいまだ止まず

2015年現在、佐野は同院の心臓血管外科科長として臨床の最前線に立っている。2005年に前任の院長が辞めた時、2つの選択肢があった。

「院長にとの要請がありました。ただ、あのポストには現場から身を引くという意味も込められている。熟考した結果、現場に立ちつづけることを選びました」

渾身の作である新病棟を置き土産とするかのように、再度、臨床に専念する体制を獲得した佐野は、黙々と症例を重ねる日々に戻っていった……と思いきや、きらりと瞳を輝かせ、いたずらっぽく語り始める。

「最新の話題を提供しましょう。3つあります。ひとつは、再生医療、もうひとつはUT-Heart、そして国際貢献です」

再生医療とは、京都大学医学部から招聘した王英正・新医療研究開発センター教授を中心に進む研究。自らの心臓にある幹細胞を採取して培養、カテーテルで心臓に移植してポンプ機能を強化することを目指す。

重度の先天性心疾患の場合、最終的には「心臓移植」しか治療法がなくなる場合も少なくないが、国内では親の心情面などから小児の脳死ドナー(臓器提供者)はほとんど現れない。この治療法で心機能をアップさせ、成長して体が大きくなれば心臓移植を受けられる可能性が増し、患者に新たな選択肢をもたらすと期待されている。

具体的には、血流改善の手術時に採取した心臓組織100ミリグラムから心筋の基になる幹細胞を抽出。10日間の培養で幹細胞を増やし、体重1kg当たり30万個の幹細胞(2~3cc)をカテーテルで心臓付近の冠動脈に注入していく。2011年から臨床試験がつづいており、良好なデータが日々得られている。

「この研究は当初、成人の心臓を対象に進めていましたが、思うような成果が得られなかったそうです。その話を耳にした私が、閃きを得て、王教授に『子どもの心臓は成人のものとは違う反応を示すものだから、チャレンジしてみてはどうか』とアドバイスしたのが発端でした

UT-Heartとは、マルチスケール・マルチフィジックス心臓シミュレータの意味。物理学、工学、医学、生理学のさまざまな知識を結集して、本物の心臓と同じ動きをする人間の心臓をコンピュータ上に再現するもの。

スーパーコンピュータ「京」で、血液の流れや、血圧、心電図を計算して、治療法の詳細な検討や治療後の状態の正確な予測を行うことができ、心臓の外科施術を仮想的に行うことで最適な手術法を検討することが可能になる。理化学研究所と東京大学が協働して進めるプロジェクトだが、佐野がシステム開発への協力をしているという。

「CTやMRIの画像データに加え、細胞の中のイオンチャンネルやミトコンドリアの情報をすべてインプットし、心機能の診断、治療を精緻にシミュレーションします。心室の酸素消費量までもシミュレーションできますから、詳細なデータを積み重ねて心臓の寿命まで予測します。もちろん、手術の手法選択にとても大きな威力を発揮します。このプロジェクトが今、小児の心臓にフォーカスする局面を迎えているため、私に相談が来ているのです。当院の膨大な症例数が、大きな貢献を果たせそうです」

ボランティアの限界にさしかかったときに
意外なところから強力なサポートが

国際貢献は教授就任直後から積極的に取り組み、インドネシアから多くの患者を受け入れた実績がある。

「インドネシアとの交流は、ボスであるロジャー・ミー教授がオーストラリアとインドネシア間で築いた協力関係です。ミー教授が現役を引退するにあたり、後継者として私を指名したため、オーストラリア・インドネシア間の関係が日本・インドネシア間の関係に引き継がれたのですね」

佐野の名声を頼った海外からの招聘は、副院長を辞して後、加速度的に増えていった。それに実直に応える佐野は、旅費を自前で捻出し、まったくのボランティアでフィリピン、ベトナムへと足を運ぶ。

「宮仕えの経済状況で、高頻度に海外渡航するのには限界があります。また、手術チームに参加して同行してくれる医師や看護師にも経済的なものはもちろん、渡航先での事故などのリスクを押しつけることにもなる。やり甲斐は大きいながら、悩みも尽きない取り組みでした」

そんなときに、意外なところからサポートがあった。以前から交流のあった大物政治家(後に、首相になる)から、『上京する機会があるなら、たまには会いませんか』と議員会館への招待があったのだ。そこで、この件を相談してみると、行政に精通したプロならではのアドバイスがあった。

「JICA(国際協力機構)の予算を使えるかもしれない。相談に行ってみるべきだということでした。半信半疑で同機構を訪れたのですが、口添えがあったのも大きかったのでしょう、とんとん拍子に話が進みうれしい驚きに包まれました」

最初の3年間で3000万円、次の5年間で7000万円の予算が下り、今では現地の研修医を日本に連れ帰ることもできるようになっている。

「最近では、岡山大学医学部の学生を現地に同行することもできるようになりました。これまた嬉しいことに、ベトナムでの私たちの貢献ぶりを目にした学生は、全員外科医を志望してくれました」

国際貢献については、さらに熱弁がつづいた。

「私はこの取り組みを、岡山大学だけの手柄にするつもりは毛頭ありません。職を辞するまでにしっかりとした道をつくり、後進に譲る際には日本全国の志ある医師が参加できるプロジェクトになっていてほしいと思います」

止まない疾走の先に見える未来
情熱の発露を探す喜び

三つの話題に聞き入るにつけ、素朴な疑問がわく。天才外科医は「切って治す」こと以外にも、興味があるのか?

佐野はカラカラと笑いながら、答えてくれた。

「まったくの誤解です。私は外科医である前に、医師です。臨床の現場では、患者本位に治療を進めるのが第一義。あまり知られていないようですが、私がカテーテル治療を選択する症例は、年間300ほどもあるのですよ。何が何でも切りたい。そんな医師ではありません」

再生医療やシミュレーションシステムについては、どうか。

「好奇心ですね。最先端のことは、関われるだけで面白くて仕方がない。再生医療の小児への転用のアイデアも、正直、発端はひらめき以外の何ものでもありませんが、基礎研究というものはブレークスルーがなければ先細りしてしまう。そういった本質はわかっていますから、思いつきですが、かなりの確信を持ってアドバイスを送りました」

この人物は、今も疾走している。止まることのできない回遊魚なのかもしれないし、ランナーズハイを楽しんでいるスプリンターなのかもしれない。ただ、ひとつだけ確かなのは、それが、背中を見て後を追ってくれる次世代が必ずいると信じての疾走であることだ。

若手医師へのメッセージ

確かに、医の先達の中からも「技術としての医学はすでに爛熟期にあり、新しい発見や挑戦は出尽くした」との発言が出ています。私は、大いに異論を持ちます。新しいことは、いまだに無尽蔵に待ち構えています。見出されるのを待っています。

有史以来、人の人生は一度きりです。せっかくの人生なのですから、いつまでも、どこまでも「追い求める」姿勢を失わないでほしい。追い求めてもなお「入り口」が見つからないのは、若者の常です。そこに「入り口」に出会うきっかけや選択肢を示すのは、私たち先人の責務と考えます。私たちが責務を果たし、ひとりでも多くの若者が「入り口」を見出す瞬間を得る。そんな図式がますます紡がれていくこれからであることを、期待し、信じています。

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