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荒木 重雄(国際医療技術研究所IMT College 理事長)
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荒木 重雄

(国際医療技術研究所
IMT College 理事長)

生命倫理の問題を克服し、環境整備に尽力
進化を遂げる「生殖補助医療」をリードする

国内外の大学で生殖内分泌の基礎研究に従事し、その論文は国際的にも高い評価を受けた。一転、1980年末以降は、生命倫理上問題があるとされた生殖補助医療の健全な発展に向けて尽力。大学退職後もその熱意は変わらず、医師や看護師を対象にした医療教育に心血を注ぎ、日本の不妊治療のレベルを押し上げた。すべては患者中心の医療の実現のため。日本の不妊治療をリードしてきた荒木の絶えざる熱情に迫った。

プロフィール

荒木 重雄(あらき しげお)

経歴

医学博士。国際医療技術研究所IMT College 理事長。日本生殖医療研究協会会長。

1966年札幌医科大学卒業後、同大学、群馬大学、米コロンビア大学医学部にて生殖内分泌を学ぶ。1974年からコロンビア大学医学部常任講師に就任、帰国後自治医科大学産婦人科学講師、助教授、生殖内分泌不妊センター長、同大看護短大教授等を歴任。2000年4月に国際医療技術研究所理事長に就任し、海外との医療協力に力を注ぐ。また日本生殖医療研究協会会長として日本の生殖医療を率い、不妊カウンセラー、体外受精コーディネーターの養成に尽力、毎月、6冊の英文医学雑誌を翻訳し教育テキストとその講義録のDVD を作製、updateの医学情報のdata base であるIMT College Dictionaryの作製、著書に『不妊治療ガイダンス』『体外受精ガイダンス』など。

荒木 重雄(あらき しげお)

特設スタジオのカメラを前に
毎週2時間の講義を実施

生殖内分泌を長年研究した、不妊治療の第一人者。荒木重雄医師は、毎週木曜日の夜、2時間余りにわたって、講義を行う。目の前に聴衆はいない。が、インターネットを通して、その模様は全国の会員に届けられる。特設スタジオ内のカメラの前で講義をする荒木の言葉に、自然と力が入る。

内容は欧米で発表された、生殖医療や産婦人科学に関する専門誌の臨床論文の紹介と解説だ。講義に先立ち、扱う論文はすべて日本語に訳して、要点を文章にまとめる。さらに専門のナレーターを起用するなど、分かりやすさも追求。希望する会員には、事前に講座用のテキスト、そして講義終了後は、その模様を収録したDVDを送付する。

これは、荒木自身が理事長を務める「国際医療技術研究所」の専門教育機関「IMT College」の一環で行う「テレビ講座」のあらましで、大学退職後の2000年に立ち上げて以来、これまで14年にわたって実施してきた。

さらに、このほかに、同研究所の「那須研修センター」、栃木や東京の会場などで、定期的に医療者を対象にしたセミナーを実施。2004年からは医療を支える看護スタッフのために看護領域の学術支援プログラムも構築し、毎月、看護・助産学専門誌の論文を和文で解説したテキスト、DVDを看護師の会員に送付している。

おかげで、荒木に休日はない。講義やセミナーの準備のために、毎日の睡眠時間は4時間ほど。なぜそこまでして、こうした医療教育に力を注ぐのか。荒木は次のように答える。

「もともと、大学教員の時代から、若い医師に対して、毎朝1時間の講義を行ってきましたが、その背景には、医師は最新の学問的根拠を基にしながら、適切な医療を提供することが不可欠との考えがありました。

その延長上に、国際医療技術研究所(IMT College)を立ち上げたのですが、当初から私が主要なターゲットとしてきたのは、第一線の民間クリニックの先生方です。というのも日本の生殖医療は民間クリニックで発展してきたという歴史がある。そうした先生方に、最新の学術論文を分かりやすく伝えることで、少しでも不妊治療を含む生殖医療の進展に貢献できればと考えました。特に体外受精などの高度生殖医療は、技術的な進展が著しい分野。日々、診療に忙しい臨床家に、効果的に生殖医療、産科、婦人科を含む最新情報をお伝えしたい。その思いが、私を支えているんですよ」

海外の治療システムをいち早く紹介
日本のART導入に多大な貢献

実際、近年の不妊治療は目覚ましい進化を遂げている。その出発点となったのが、卵子を体外に取り出し、受精した胚(受精卵)を子宮に戻す「体外受精―胚移植」(IVF-ET)技術の確立だ。1978年ロバート・エドワーズ博士とパトリック・ステプトー医師の手により、イギリスで初めて体外受精児が誕生したのを皮切りに、各国で体外受精児の出産例が報告された。日本でも、1983年に東北大学の鈴木雅洲医師のグループがこの方法で子どもを誕生させた。現在では、世界で500万人以上が体外受精で生まれたといわれる。

さらに、この技術の確立を機に、新たな不妊治療として、「生殖補助医療」(Assisted Reproduction Technology:ART)の道が切り開かれた。かつての不妊治療(「一般不妊治療」)は、性腺刺激ホルモン(ゴナドトロピン)の注射やクロミヘンの内服による「排卵誘発法」、子宮の中に直接精子を注入する「人工授精」、さらには卵管のつまりを通す手術くらいで、実際に荒木が在籍していた自治医科大学においても、妊娠まで至るケースは全患者のうち約半数というレベルだった。

しかし、体外受精の出現以後、その治療法は大きく変わる。やがて、卵子の細胞質内に精子を直接注入する「顕微授精」(ICSI)、体外受精や顕微授精でできた胚を凍結保存し、卵子を採取した周期とは別の周期に融解して子宮内に移植する「凍結融解胚移植」(FET)も開発され、世界中に普及した。

日本産科婦人科学会の統計によると、2011年の1年間に行われた国内のART治療周期数は26万9659件、出生児数は3万2413人で、これは全出生の32人に1人に当たる。

荒木がいうように、こうした不妊治療を積極的に担ってきたのが、民間クリニックである。

「普通はどんな分野でも、高度な医療は大学病院で発展し、方々に普及していくものですが、不妊治療においては、民間クリニックがリードしてきました。というのも、体外受精をはじめとしたARTは生命倫理の問題もあり、大学や公的病院では治療体制がなかなか整わなかったからです。実際、私自身も、1980年代半ばまでは懐疑的に見ていました。倫理的な問題や成功率が決して高くはない医療には限界があるのだから、体外受精は一般的な治療法になり得ないだろうと考えていたのです。

しかし、80年代後半から、特にアメリカで体外受精児誕生の成功例が多数報告され、かつ、各国で新しい治療法の開発が活発に推進されてきた。そうした国際的な状況に接するにつれ、不妊治療の専門家である自分たちが、新しい治療を拒んでいていいのか。それこそ、責任を果たしていないのではないかと考えるようになりました」

以来、荒木はARTの普及に積極的に尽力するようになる。

早速、1988年、家畜繁殖の研究を皮切りに、体外受精や最新の生殖医療の研究を活発に進めていたオーストラリアの医療現場を視察。生殖医療の分野で国際的に知られていたモナシュ大学でワークショップに参加したほか、やはり世界的に名高いパースのIVFセンターを訪問、現地の医師たちとディスカッションを繰り広げた。生殖医療の現場をくまなく回った荒木は、帰国後にその成果として体外受精の治療マニュアルを作成する。

「あくまでも、所属していた自治医科大学の研究室で活用する目的でしたが、全国の産婦人科医から『自分たちにも見せてほしい、分けてもらいたい』と催促されたんですよ。私はもともと自分が得た知識や技術を独り占めする考えはありません。多くの医療者と共有する方が、医療の進歩につながるという考えですから、そのつど提供していたら、あっという間に全国に広まっていきました。その直後、体外受精を行う日本の民間クリニックは急激に増えました」

さらに、自治医科大学附属病院の生殖内分泌不妊センター長に就任した90年代半ば以降、同センターが進める生殖医療の現場を、ほかの施設の医師に積極的に公開してきた。また、多数の医療施設からARTを見せてほしいという依頼にも快く応じ、全国各地を訪れ手技を教えた。現在、不妊治療で実績のある医療機関の多くが、荒木が行う不妊治療の視察経験があるとまでいわれている。現在の日本のARTの普及の陰に、こうした荒木の努力があったことは無視できない。

産婦人科医になったのは
母親が患った病がきっかけ

荒木は医師としてのキャリアの大半を生殖内分泌、そして不妊治療の普及に捧げてきたが、そもそもこの道を選んだのは偶然の要素が大きかった。

「僕の場合、たまたま両親が医者だった親友の影響で地元の札幌医科大学に入っただけ。そもそもどんな医師を目指そうという理想像を持っていなかったため、医学生時代も専攻を決めかねていました。手先が多少器用だったため、外科に魅力を感じていた時期もありました。実際、1年間のインターン時代は、盲腸どころか、脳挫傷の患者の手術にも参加しましたから」

しかし、医学部6年次に、人生の選択を決める出来事が起こった。母親が子宮癌を患ったのである。母親思いの荒木は、自ら同大産婦人科学教授の明石勝英医師のもとへ治療をお願いに行った。明石教授は「明石式膣式子宮全摘出術」を編み出した、日本を代表する膣式手術のエキスパートだった。

結局、母親は手術ではなく、放射線療法で治療することになったが、このときの明石教授とのかかわりが、産婦人科医を目指すきっかけになった。インターン終了後、同大の産婦人科学に所属。以後、膣式手術を執刀するなど、臨床経験を積み重ねながら、生殖内分泌の研究に明け暮れた。

「生殖内分泌を研究テーマにしたのは同じ産婦人科学に所属されていた酒井潔先生の影響です。先生は私が学生のころ大学院生として薬理学の研究室に在籍し、よく面倒を見てもらいました。学問にも深く精通し、人柄も素晴らしい。その酒井先生が生殖内分泌の専門家だったために、私もこの分野を研究しようと考えるようになりました。結局、この選択が私の一生を決めましたね」

荒木は3年にわたって、札幌医科大学で研究を続けた。しかし、やがて限界を感じる。同大では卵胞ホルモンを測定するにも、尿から抽出して分光光度計で色の具合を見ることぐらいしかできない。これでは、感度も悪いし、到底納得がいく成果は得られなかった。やがて、荒木は「どうせなら、日本で一番生殖内分泌の研究が進んでいる大学で勉強したい」と考えるようになった。

そのときに荒木の視野に入ってきたのが、当時、国立大学の中で唯一、内分泌研究所を有する群馬大学だった。さらに同大産婦人科を率いる松本清一教授は、生殖内分泌の大家。荒木は、松本教授に手紙を書いた。

「どこの馬の骨かも分からない新米の医者からの手紙ですから、断られるのが普通でしょうが、松本先生は『それならうちの教室においで』と、私の思いを受け止めてくれた。それで北海道から群馬大学に出てくることにしたのです。その後も、松本先生が自治医科大学に移られるのに伴い、私自身も自治医科大学に移り、臨床・研究を続けてきた。その意味でも大変お世話になりました」

世界的な研究成果を
発表するチャンスに恵まれる

群馬大学では、松本教授と同様にやがて自治医科大に移ることになる玉田太郎助教授の下で、新たなホルモン測定に取り組んだ。ラジオイムノアッセイという、アイソトープを用いた免疫測定法である。

具体的な研究テーマは、ラジオイムノアッセイによる「性腺刺激ホルモン放出ホルモン」(GnRH)の測定。当時はロジェ・ギルマンとアンドリュー・ウィクター・シャリーの手により、このホルモンが分泌される最上位中枢が、視床下部であることが明らかにされた時期で、世界的にも注目度が高いテーマだったが、GnRHの抗体の産生に成功、独自の測定法を編み出した。

群馬大学での研究が3年経った1973年、荒木はこの方法を使って、より高いレベルの研究を志す。このとき新たに荒木の視野に入ってきたのは海外だった。中でも、世界的な内分泌学者として著名な、コロンビア大学のヴァンデウィーレ教授が行う、サルの脳下垂体の研究に興味を持った。早速、荒木はかつて、群馬大学の松本教授にしたように、ヴァンデウィーレ教授に手紙を書く。内容は「ラジオイムノアッセイで性腺刺激ホルモン放出ホルモンを測定し、間脳 下垂体系の内分泌調節の仕組みを解明し、ぜひ先生の研究に貢献したい」というものだった。

70年代前半のアメリカは不景気で、日本からの留学もなかなか実現されないことが多かったが、ヴァンデウィーレ教授から「すぐに来てくれ」との返事をもらう。コロンビア大学にはホルモン測定の技術がなかったために、荒木らが編み出した測定法に大きな期待が寄せられた。

荒木はコロンビア大学に2年間籍を置き、研究に没頭する。その結果、世界的な研究成果を発表するチャンスに恵まれた。ヴァンデウィーレ教授はヒトの生殖内分泌の研究は、マウスなどの小動物ではなく、サルなどの霊長類で行う必要があると考えており、荒木も霊長類研究グループに所属し神経内分泌の研究に携わった。あるとき、脳外科医の協力を得て間脳から下垂体を結ぶ微細な血管である下垂体門脈から特殊な方法を用いて継続的に採血し、血中の性腺刺激ホルモン放出ホルモンの測定を試みたが、当初の期待とは異なり最初は極めて低値に留まり失望した。しかし、時折、高い反応が出ることに気付く。初めのうちは測定の誤りではないかと考えたが、そうではなかった。一定の間隔でパルス状にホルモンが分泌している。そのことを突き止めた荒木は、間脳からパルス状に分泌される性腺刺激ホルモン放出ホルモンが脳下垂体からの性腺刺激ホルモンのパルス状の分泌を引き起こしていることを世界で初めて発見し、論文にまとめ発表した。

「ホルモンのような活性物質が持続的に作用すると、その臓器の感受性がなくなってしまう。パルス状に脳下垂体を刺激することで、継続してホルモンを分泌することができるのです。人間の身体にはホルモンの産生を程よいレベルに調整するメカニズムが備わっているのです。このことを明らかにした論文は世界でも初めて。国際的にも注目されました」

患者さんを中心にした
医療の提供へ向けて

荒木は日本に帰国すると、松本自治医科大学病院長、玉田産婦人科教授の後を追って、自治医科大学の講師に就任。以後、同大で着実にキャリアを積みながら、一貫して日本における生殖医療の発展、環境整備に努めてきた。

特に、内外から高い評価を受けているのが、1998年に設立した「日本生殖医療研究協会」を母体に進めてきた不妊カウンセラー、体外受精コーディネーターの養成事業である。

「不妊治療の裾野は格段に広がりましたが、大事なことは患者さんを中心にした医療(「patient centered care」)の実現です。いくら不妊治療の技術が進んでも、卵子の老化が進めば、出産の確率が低下してしまう。患者さん自身にそうした生殖医療の現実をいかに理解してもらい、患者さんの希望に添った医療を提供するか。その意味でも、医師や看護師だけでなく、正しい知識を伝える体外受精コーディネーターや、不妊に悩む方々のサポートを行う不妊カウンセラーの存在は極めて重要でした。そこで、これらの専門職の養成に取り組んだのです」

現在、ARTを行う医療施設は全国で580施設。荒木の尽力もあり、日本は世界で最も人口当たりのARTの医療施設が多い国となった。とはいえ、荒木の目から見れば、まだ発展途上。解決すべき課題が少なくないという。

「日本では日本産科婦人科学会がガイドラインを策定し、ARTの医療施設の登録システムを設けているものの、それが守られているかどうかを確認する仕組みもないし、個々の医療施設ごとの出産件数などは公表されていません。ここがアメリカをはじめとした世界との大きな違いです。アメリカでは必ずそれぞれのクリニックで治療した症例を、すべて学会に報告することになっていますし、患者さんは政府の公的機関である疾病管理センター(CDC)のホームページを通じて、病院ごとの症例や、実績をすべて確認することができます。

また、国の方針などを決める際にも、日本では医師の関与が大きすぎるという問題もある。厚生労働省の審議会のメンバーを見れば、ほとんどが大学教授ばかりでしょう。しかし、イギリスの生殖医療に関する政府機関「ヒトの受精および胚研究に関する認可庁」(HFEA)の委員会の委員長、副委員長および委員の半数以上は不妊治療関連の医師や研究者以外のものでなくてはならないと定められている。実際、メンバーは歴史学者、法律専門家、報道関係者、不妊治療経験者、宗教家、哲学者などの民間人が多数を占めている。当事者や一般人が決めることを前提に、医師はアドバイザーとして加わるだけ。その意味でも、海外の例を参考にしながら、患者さんを中心にした医療をいかに実現するかが、今後の大きな課題です」

解決すべき課題は山積しているが、荒木自身は今後どのように活動を進めていくつもりなのか。最後に、今後の展望をうかがった。

「やはり、社会全体の意識を変えて、みんなで不妊に悩む人たちを支えていく、サポートしていく。そういう機運を生み出すことも必要でしょうね。
 それに加えて、私自身は体が動く限り、このIMT College の活動を続けていきたい。だいたい、毎週コンスタントに最新の論文を訳して、講義するなんて人は他にいませんから、その意味では大きな使命を感じていますよ。その上で、今後は、より分かりやすい、理解しやすい教育教材の在り方も考えていきたいと思っています。活字だけではなくて、動画やグラフィックなど、視覚に訴えた教材や患者支援のコンテンツをもっと開発していきたいですね」

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