赤星 隆幸(三井記念病院眼科 部長)
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赤星 隆幸 (三井記念病院眼科 部長)

患者第一主義の姿勢が結実
常識を覆す白内障・新手術法の開発

目を治す医師になりたい――。多くの困難に直面しながらも、ぶれることなく、少年期に思い描いた夢をひたすら追い求め、眼科医としてのキャリアを積んだ。そして、白内障手術の常識を一変させる、新術式「フェイコ・プレチョップ法」を開発。
多くの患者が失明の危機から救われ、世界から絶賛された。今や世界を代表する眼科臨床医として、年間9000件の手術を執刀する傍ら、実地指導のために海外を飛び回り、術式の普及に努める日々。そんな赤星の活動、思いを追った。

プロフィール

赤星 隆幸(あかほし たかゆき)

経歴
  • 1982年 自治医科大学卒業
    自治医科大学眼科研究生
    横浜市立市民病院 研修医 ( 内科・小児科・麻酔科・産婦人科・眼科)

  • 1984年 神奈川県立厚木病院 眼科
  • 1985年 神奈川県立煤ヶ谷診療所・千木良診療所・中井やまゆり園
  • 1986年 東京大学医学部付属病院 眼科助手
  • 1989年 東京女子医科大学糖尿病センター 眼科助手
  • 1990年 武蔵野赤十字病院 眼科
  • 1991年 三井記念病院眼科 部長
  • 2000年 復旦大学(旧上海医科大学)眼科客員教授
    ハルピン医科大学眼科客員教授

  • 2006年 米国イリノイ大学眼科客員教授

赤星 隆幸(あかほし たかゆき)

患者に負担の小さい手術をしたい

1992年、世界の白内障手術を一変させる、画期的な手術法が開発された。その名は「フェイコ・プレチョップ法」。手術時間は従来の20~30分から大幅に短縮、点眼麻酔での手術も可能となり、入院はおろか術後の眼帯も不要になるなど、患者の負担は圧倒的に軽減された。

さらに超音波の熱で傷口を傷めることなく、極小切開ができるようになり、傷口は従来の3.2ミリから1.6~1.8ミリまで縮小、眼球の歪みが原因で生じる「術後乱視」の心配もなくなった。

日本の眼科医、赤星隆幸医師により編み出されたこの「フェイコ・プレチョップ法」は、現在世界66か国で採用されるまでに普及している。

白内障は、現在でも世界の失明原因第1位の疾患だ。疾患というより、老化現象の一種といっていいだろう。原因はカメラのレンズにあたる水晶体の劣化にある。元来、水晶体は文字通り水晶のように透明で、弾力性に富み、自在にピントを合わせることができる。ところが年齢を重ねるにつれて、水晶体の中心部分である「核」が硬直し、弾力性が失われる。同時に濁りも生じ、網膜に鮮明な像を結ぶことができなくなる。結果、まぶしさを感じたり、視界がぼやけたりして、視力が低下する。この濁った水晶体の核を超音波で細かく砕いて吸い出し(乳化吸引)、眼内レンズに置き換えるのが白内障手術である。

赤星の年間手術数は、眼科部長を務める三井記念病院で4000件以上。ほかの病院や海外での手術も含めると、9000件を超える。もちろん日本一の数字であるが、これほどの執刀が可能なのも、手術時間が短いからにほかならない。

なぜ短時間の手術が可能になったのか。そこにこそ、この術法の独自性がある。フェイコ・プレチョップ法は、その名の通り、水晶体(フェイコ)を、あらかじめ(プレ)、砕く(チョップ)ことを特徴とする。つまり、超音波をかける前に、特殊な器具で水晶体の核を分割することによって、短時間で乳化吸引を終えることができるのだ。世界中の誰も考えつかなかった方法である。

当時の最先端の術式は、カナダのハワード・ギンベル医師が開発した「ディバイド・アンド・コンカー」だった。あらかじめ水晶体に4つの溝を掘ってから順番に吸引するというもので、これ自体、従来に比べると、革命的ともいえる術法だったが、溝の深さや長さを決めるには熟練を要した。深く掘り過ぎると水晶体を包む嚢を破損し、レンズが目の奥に落ち込んでしまう。一方、浅過ぎるときれいに4分割することができない。さらに長時間にわたって超音波をかけ続ける必要があるため、角膜や視神経にかかる負担も大きなものがあった。この解決策を赤星は求めていた。

「いかに、患者さんにとって負担のない手術をするか。それが私のテーマでした。そして超音波チップを使わずに、核を分割することはできないだろうかと考えた。それができれば溝を掘る必要もないし、手術中に必要となる超音波エネルギーもより小さくできるはずだと思ったんです」

その際にふと赤星が思いついたアイデア。それは岩盤にダイナマイトを仕掛けて爆破させるように、水晶体の核に超音波を発振する鋭利なピンセットを差し込み、それを開いたら、内側からきれいに核が割れるのではないかというものだった。

「しばらくして入手したジュエラー鑷子という特殊なピンセットに超音波チップを当てて核に刺しいれると、思っていた以上に、きれいに刺さり、核は2つに分割しました。そこに超音波をかけると、あっという間に乳化吸引ができたのです。あまりにうまくいきすぎて、自分でも驚くほどでした。これがフェイコ・プレチョップ法誕生の瞬間です。その後、ピンセットに超音波を当てなくても、刺す方向が適切であれば核をきれいに分割できることも突き止めました」

眼科医・赤星の基礎をつくった少年時代

白内障手術のエポックメーキングとも言うべき新たな術法を編み出した赤星だが、自ら「ずいぶん遠回りな生き方をしてきた」と語るように、決して順風満帆な医師人生を歩んできたわけではない。しかし、紆余曲折を経て、何度か重大な選択を迫られながらも、自分の意志で道を切り開き、眼科医としてのキャリアを着実に積み重ねてきた。その背景には、子どものころに固く誓った思いがあった。

少年時代の赤星に大きな影響を与えた人が2人いる。1人は、当時、衣笠病院に勤務していた眼科医の故古谷智恵子医師だ。当時は、夏場になると、学校のプールが原因でウイルス性の結膜炎にかかる子どもたちが眼科にあふれた。いわゆる「流行り目」である。赤星もよくかかり、自身が生まれた衣笠病院の眼科に頻りと通った。毎朝、目を洗ってもらい、軟膏を入れてもらってから学校に通う。そうした日々の中でいつも治療してくれた古谷智恵子先生の姿が印象に残った。

「当時の白内障手術は非常に大がかりでしたが、忘れられないのは、包帯を外した直後に『先生、見えますよ』という声とともに見せるうれしそうな患者さんの顔。それを見た古谷先生もとっても喜ばれるんですよ。その光景を目の当たりにして、これは素晴らしい仕事だと思ったんです。以来、僕も目を治すお医者になりたい、困った人を助けたいと考えるようになりました」

赤星に大きな影響を与えたもう1人は、当時、工業高校の教師で、地元で考古学の研究をしていた祖父である。

「祖父は私財を投じて地元の発掘調査を行っていたのですが、私もよくその現場に連れていってもらいました。そうした折に『教科書に書いてあることがすべて正しいとは限らない。定説をうのみにするのではなく、自分の目で見て考え、真実を解き明かさなければいけない』と教えてもらいました。この教えはずっと私の中に生きていますよ」

子どもの頃に思い描いた「目を治すお医者さんになりたい」という夢を叶えるため、赤星は小中高とよく勉強した。大学受験は、現役時は東大の理Ⅲに失敗するが、翌年自治医大に入学。その直後から、眼組織の基礎研究にどっぷりとはまった。

「1年次から解剖が好きだったのに加えて、組織学の教授であった齋藤多久馬先生が、自由に研究室を使わせてくれたのも大きかったですね。ただし、先生からは研究によって学問がおろそかになってはいけないと念を押されましたので、授業はすべて出席し、基本的な医学書も英語で読破。その上で、夕方から研究室で夜を明かし、明け方に寮に戻るという生活を続けました。当時は実験が楽しくて、楽しくて、ほとんど寝る暇がなかったですね」

そうした努力もあって、大学1年の時点で、既に解剖学会で発表するレベルにまで成長。さらに研究を継続する中で、網膜色素上皮細胞による視細胞外節膜の貪食に光の刺激が関係することを世界で初めて解明した。当時の解剖学の教科書とは相反した内容だったが、祖父の教え通り、定説をうのみにせず、真実を明らかにしたことで、赤星の名前は国際的にも知られるようになった。

自治医大を卒業すると、地元で9年間地域医療に携わらなければいけない。赤星はさらに基礎研究を極めたかったが出身地の神奈川へ戻った。

「もともと県の担当者から伝えられていた『神奈川県にはへき地がない。研究の道もある』という言葉を信じて入学したのですが、現実は甘くないということを思い知らされました」

卒業後、神奈川の市立病院で2年間、研修医として働くことになった赤星は、「研究ができないなら、眼科専門の臨床医を目指そう」と考えたが、あらゆる診療科を研修しなければならず、しかも2週間泊まり込みも当たり前という多忙さゆえに、眼科を集中して学ぶ機会はほとんどなかった。その後、1年間は眼科医として診療できるチャンスを得たが、翌年は山の中の診療所でへき地医療に携わり、ますます眼科医とはかけ離れた日々を過ごさざるを得なくなった。

自らの力で眼科医の道を切り開く

しかし、赤星には夢を夢で終わらせない、強い思いと行動力があった。勤務がない週末には4時間以上かけて、母校の自治医大に通って実験を続けた。土曜日の夜に大学に着き、しばしの仮眠をとった後、実験に取り掛かる。そして、日曜の深夜に神奈川に帰るという生活を続けたのである。

しかし卒業から5年目、ついに限界を迎える。ハードな生活に体が悲鳴を上げたのではない。県から保健所で公衆衛生の道に進むようにとの辞令を受けたのだ。赤星にとってこれは決定的だった。眼科医どころか、臨床医の道をあきらめなければいけないという宣告だったからだ。

赤星は迷ったが、決断した。「目を治すお医者さんになりたい」という子どもの頃からの夢に忠実に生きていこうと、辞職届を提出。結果的に学費免除の契約を破ることになり、銀行にローンを組んで、奨学金を一括返済した。

こうして眼科医の道を選んだ赤星は、「せっかく眼科の研修医として勉強するのだから、最高の場所で学びたい」と東大への入局を志す。当時の東大眼科は東大卒業生か子弟関係以外、入局が許されなかった時代。無謀にも思われたが、当時の三島済一教授は入局を認めてくれた。赤星が学生時代に発表した論文を三島教授は高く評価していたのである。東大に入局後は、研究ばかりでなく、臨床にも力を入れた。4年間のハンディを取り戻すように、休日も返上して、多くの手術を執刀した。

2年にわたる東大での研修を経て赤星は東京女子医大の糖尿病センターへ赴任命令を受けた。大きなチャンスでもあった。やがて講師、助教授、教授と階段を上がるように、アカデミックの世界で出世できることが想定できたからだ。

しかし、赤星にはそうした出世を求める気持ちはさらさらなかった。むしろ、思うように臨床経験を積めない日々にもどかしさを感じた。赤星が担当するのは糖尿病の患者のみ。しかも、白内障手術ができるのは、月に数回だけ。これでは、糖尿病網膜症のエキスパートにはなれても、手術で目を治す医師になりたいという、子どものころの夢を実現できないのは明らかだった。

そうした中で赤星は大学の外に出て手術経験を積もうと、週に1日の「研究日」を使って、武蔵野赤十字病院の清水公也医師(現、北里大学眼科学講座教授)の助手を務めることになった。

「当時の白内障手術は超音波を当てる乳化吸引が行われ始めた時代。清水先生はそのエキスパートでしたので、何とか最新の術法を学ぼうと、助手を願い出たのです。当時の東京女子医大の糖尿病センターでは、まだ眼球に半周もの傷をつけ、水晶体を丸ごと取り出す昔ながらの手術を行っていましたから非常に刺激的でした。やがて清水先生は、そんなに手術をしたいのなら、武蔵野赤十字病院に移らないかと言ってくださいました」

またしても人生の選択を迫られた赤星だったが、技量のある眼科医を目指すには、大学病院に残るよりも武蔵野赤十字病院の一医局員として経験を積んだ方がいいと移籍を決断する。眼科医として外来、手術に明け暮れ、充実した日々を過ごしていたが、移籍から1年後、赤星に改めて、東大から三井記念病院眼科部長への異動命令が下る。プレチョッパー法を見出す1年前のことである。

「もし、病院に残っていれば、新しい術式を試す機会がありませんでした。その意味ではタイミングにも恵まれていたのかもしれません」

赤星に人生の女神が微笑み始めた。

世界に術式を広め
失明の危機にある人を救いたい

1992年にプレチョッパー法を開発した赤星は、誰でも入手でき、簡単に扱え、しかも安定的に核を分割できる器具の制作に取り掛かった。術式ばかりではなく、オリジナル器具の考案、開発まで赤星自身が担ったのである。

「世界に前例のない術法ですから、この手術を行うのに適した器具はありません。そこで、器具の設計図もすべて自分で書き、ASICOというアメリカのメーカーに試作品をつくってもらいました。その試作品を持って、毎夜、病院屋上にある実験フロアで、動物実験を繰り返したのです」

フェイコ・プレチョップ法誕生から4年の時間を費やして、ついにステンレス製のオリジナル手術器具「プレチョッパー」が完成。その後も、1.8ミリの傷口から直径6ミリの眼内レンズを移植する際に必要な、特殊なインジェクターなどオリジナルの器具の開発を続々と進めた。結果、1冊のカタログにまとまるほどに、ラインナップが固まった。

赤星はこうしたオリジナル器具に対して、特許を申請していない。特許を取ることで、製品の価格が上がることを避けたかったからだ。むしろ、すべての医師が赤星と同様に手術ができるよう、各種器具の使い方をイラストで説明したり、手術のやり方を一通り撮影したDVDを作成したり、その動画をネットで発信するなど、術式の普及に努めてきた。

「当初は国内の学会でも研究発表や公開手術にいそしみましたが、逆に学会からは批判を受けました。『手術時間が短いために、簡単な手術だと思われる。その結果、保険点数が下げられて、自分たちの首をしめることになるのではないか』というものです。ひたすら患者さんのためを思って、術式も開発したのに、まったく違うところに反応している。日本の学会に失望しました」

ところが日本の状況とは裏腹に、世界中から絶賛の嵐。国際的に権威のある米国白内障屈折矯正手術協会をはじめ、欧米、アジアの各機関でさまざまな賞を受けた。自然と、赤星の目は世界に向けられた。

「日本で評価されない状況は残念ですが、それは仕方がない。むしろ、白内障は手術で治せるのに、発展途上国ではその機会がないために、毎年何百万人もの人が光を失っています。そうした失明を食い止めたいという思いがあるので、外国に赴いては、実地指導という形で、手術のノウハウはすべて伝えるようにしています」

患者第一主義に徹する

赤星が嘆くように、プレチョッパーは日本では普及していないものの、三井記念病院には白内障患者が殺到し、赤星の執刀を受ける。

「当院の眼科にこれだけの患者さんが来られるのは、1000件以上の開業医からの紹介があるため。手術の結果が良く、患者さんが喜ばれるからこそ、また次の患者さんを紹介していただけるのだと思います。患者さんのために、できるだけ良いものを使って、質の良い手術を行いたい。そのためには、時に採算を度外視し、白内障の手術点数は12万円ですが、14万円する乱視を矯正する質の高いレンズを使うこともあります。自分を忘れて患者さん第一主義に徹する、そうした姿勢が評判を生んだのではないかと思います」

年間9000件以上の手術を行う赤星には休日がない。長年、週7日勤務で病院を出るのは、夜の 11時を過ぎてから。その多忙な日々を縫いながら、海外渡航、器具の改良を行うほか、カメラなどの趣味に時間を費やす。

「手術件数が増すたびに、責任も大きくなってきました。患者さんにとって2つしかない大切な目ですから、絶対に手術に支障があってはいけないので、5時間は睡眠時間をとるようにしていますが、若い時の苦労を考えれば体は全然辛くない。ただし、あまり忙しいと、器具を改良するアイデアなどを考える余裕までなくなってしまうので、心のゆとりは持っておかないといけないと考えています。その意味でも趣味は大事ですね。時にはカメラをいじったり、飛行機に乗っている間は、パソコンにダウンロードしておいた音楽を思いっきり聞いたり。あと、ものづくりが好きなんですよ。家の家具やメガネもすべて自分で設計しているんです」

20年以上にわたって三井記念病院に勤務する赤星だが、あと3年で退職する時期を迎える。今後の展望を聞くと、次のように答えてくれた。

「リタイアするつもりはまったくありません。海外での実地指導は続けていきたいし、それが自分の使命だと考えています。自分が現地へ赴いて先生方に手術の方法を教え、その教えられた先生方が、学んだ技術を独り占めせず、周囲の医師にも伝えていく。そのようにして点から線へ、線から面へという形で広げていき、1人でも多くの患者さんを救っていきたいですね」

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