1. 永井 秀雄(茨城県立中央病院・茨城県地域がんセンター病院 院長)
永井 秀雄(茨城県立中央病院・茨城県地域がんセンター病院 院長)
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永井 秀雄

(茨城県立中央病院・茨城県地域
がんセンター病院 院長)

手術のエキスパートが見すえる
さらなる高みへの挑戦

専門領域を極めながらも、あらゆる疾病を総合的に診療できる医師になりたい。永井はその思いに忠実に、ひたすら外科医としての自らの腕を磨き、病理を中心に幅広い医学知識を吸収した。
やがてその関心は、一外科医の領域を超え、日本の医療問題全般に広がる。見えてきた市民への医療教育の必要性。医療過疎が著しい、茨城県の公立病院院長としての重責を担いながら、小中学生に向けた医療教育に着手した今、その本格的な展開に向けて、新たなチャレンジに踏み出そうとしている。

プロフィール

永井 秀雄(ながい ひでお)

経歴
  • 昭和48年 東京大学医学部卒業
  • 昭和61年 ドイツヴュルツブルク大学留学
  • 昭和63年 国立療養所東京病院外科医長
  • 平成3年 自治医科大学消化器・一般外科助教授
  • 平成11年 同大学消化器・一般外科教授
  • 平成14年 同大学外科学講座主任教授
  • 平成16年 同大学附属病院副病院長
  • 平成19年 茨城県立中央病院・茨城県地域がんセンター病院院長
所属学会等
日本外科学会、日本消化器外科学会、日本消化器病学会、日本肝胆膵外科学会、日本内視鏡外科学会、日本胆道学会、日本成人病学会等

永井 秀雄(ながい ひでお)

トータルに患者さんを診たい
だから外科医を志した

慢性的な赤字体質に悩んでいた茨城県立中央病院の経営を軌道に乗せ、立て直しへと導いた功労者。永井秀雄院長の経営手腕やリーダーシップに対する評価は高い。

彼の院長としてのスタイルは極めてユニークである。まず、院長室にこもって長時間執務を行う、というタイプではない。常に現場主義を貫き、診療時間中は手術室、病棟、外来と、院内のあちこちを走り回る。一医師として、常に現場で医療者とコミュニケーションを取り、そして患者さんに寄り添うことを第一に考える。

専門は消化器系(肝胆膵)の外科で、誰しもが認める外科手術のエキスパート。卒後2年余りで膵頭十二指腸切除術(pancreatoduodenectomy・略称PD)を担当、腹腔鏡手術に関する新術式にも果敢にチャレンジし、成功させたパイオニアだ。現在でも年間150件を超える手術にかかわるほか、新しい術式の開発・工夫にも関心を寄せる。年齢を重ね、大病院を率いる院長に立場を変えても、手術への情熱は薄れることがない、根っからの外科医であり、医学に対する視野が極めて広い。外科病理のスペシャリストとしての顔も持ち、これまで蓄積した病理解剖のデータは3000体以上。その経験から、専門の肝胆膵だけではなく、脳や肺、心臓など、内科的な所見も含めて、データをもとに普段の診断や後進の教育に生かしてきた。

何事も徹底的に窮めるのが信条であり、これまでの医師としてのキャリアは、その一貫した姿勢に支えられてきた。外科医を目指し、後に病理解剖にも精通した背景にも、ある理由があったという。

「医療は専門分化が進んでいますが、私はもともと診療科の範囲を超えて、一人の患者さんを総合的に診療できる医師になりたい、トータルに患者さんを診たいという思いが強くありました。外科医は努力次第で内科的な疾病も診療できるようになりますが、内科医は外科の手術は絶対に行えない。ですから、私が外科医を志し、後に病理解剖にも取り組んだのは極めて自然なことでした」

その言葉の通り、開成高校から東京大学医学部へ進学した永井は、外科医としてのキャリアをスタートさせる。学部卒業後は東大第一外科に入局、研修医として附属病院で1年間の研修を終えると、社会保険群馬中央総合病院での勤務を自ら選択した。

「大学では最先端の医療を学べますが、院内には医師の数も多く、若手医師の診療経験は限られます。やはり若いうちには、多くの患者さんの診療に携わりたい、何でも経験してみたいという思いが強くありました」

社会保険群馬中央総合病院の外科医の数は、自身を含めても3人だけ。診療科も限られていたため、時には皮膚科や泌尿器科の患者を診察したことさえあった。しかし、トータルな医療の提供を目指す永井にとって、そうした環境こそ望むところだった。

前述したPDの執刀も、この群馬時代のことである。内臓の手術の中で最も時間を要する、難易度の高い手術で、卒後10年の外科医でも担当できるのは一握り。しかし、永井は卒後2年4か月で実施する機会を得た。地方病院勤務でなかったら経験できなかっただろう。

さらに、当時の日本ではほとんど行われていなかった、内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP)を実施するチャンスもつかむ。赴任間もない、卒後1年半という時期であったが、院長に機器の購入を直談判。当然、断られるだろうと思っていたら、案に相違して承諾してくれた。早速、東大からERCPのスペシャリストを同院に招き、処置の仕方を一通り学んだ上で実施した。物怖じせず、新しいことに果敢に挑戦する気質は、若い時から発揮されていたのである。

3年半で約1000体の病理解剖所見を精査

3年半に及ぶ社会保険群馬中央総合病院の勤務を終え、東大第一外科に戻った永井は、専門を「胆膵外科」に決める。群馬時代でのPDやERCPの経験はもとより、第一外科でも跡見裕医師(現杏林大学学長)とともに、同大で初めて閉塞性黄疸患者に対する超音波ガイド下での穿刺、ドレナージに取り組むなど、胆膵分野の最先端医療に魅かれたことも事実である。が、それ以上に生来の開拓者精神がその選択を後押しした。

「胆膵の分野には、大腸などの分野に比べて、優れた本や教科書がほとんどない。そこに魅かれました。自分がパイオニアになって、この分野を切り開いていきたいと考えたのです」

専攻が決まると、博士論文の執筆に向けて研究の準備を始めた。選んだテーマは、病理解剖による胆膵癌の研究だった。

「これも群馬時代の経験が発端です。当時、院内には病理医がいませんでしたから、片道20分かけて、群馬大学で迅速病理診断をしてもらっていたのですが、これがとても不便だった。それをきっかけに自分でもある程度、病理を診ることができればと考えるようになったのです。そうすれば、さまざまな疾病に関する知見も得られますしね。さらに各臓器をくまなく調べるためにも、解剖を一からやってみたいとの思いもありました」

そして1980年、東京都老人医療センター(旧養育院)・東京都老人総合研究所(現東京都健康長寿医療センター)に籍を移し、毎週のように、病理解剖を実施する機会を得る。

「私が研究の対象としたのは、心筋梗塞や脳梗塞などで亡くなられた患者さんの膵臓。ここに癌がないかをくまなく調べるわけです。具体的には膵臓を細かく切って小さな膵癌がないかを調べ、見つけると転移をみるため何百ものブロックを作製し、色を染めて、顕微鏡で調べる。すると、思わぬところに癌細胞の転移が見つかる。それをマッピングして、手術で切除できる範囲などを見ていくのです。同時に、胆道や膵臓からのリンパの流れも解剖材料で見ていきました。初めてリンパ流がきれいに見えたのは赴任して半年後の大晦日の夜。日本中が紅白歌合戦を見ているときに私は病理解剖室にいたわけですよ」

この養育院時代で学んだ病理解剖の数は3年半で約1000体。その中で、偶然見つかった小膵癌の検体は計8体であったが、そのデータを英語論文にまとめた。さらに、肝胆膵に限っては勤務先が変わっても実施し、最終的には10年間で3000体のデータを蓄積するまでになった。

「3000体のデータの裏づけをもって判断できるというのは大きいですね。逆に、見たことがなければ3000に含まれないとも言える。養育院では、週ごとに解剖した検体の全臓器について、各科の先生方が集まり、ディスカッションする『オルガンコントロール』が開かれます。これに私も毎週参加し、内科をはじめさまざまな専門家から、あらゆる臓器の疾患の特徴を教えてもらうことができました」

さらに1986年から1年8か月にわたってドイツのヴュルツブルク大学に留学。このときも、あえて外科医でなく、内科医の権威メスナー教授の下で、膵炎の自己消化に関する研究を行った。その成果は消化器病学のトップジャーナルであるGastroenterologyに掲載された。ドイツで得た知見は今でも急性膵炎の臨床に役立っている。このように青年時代の永井は診療科の枠を超えて、さまざまな経験を積み重ね臨床に生かしていったのである。

医療問題の解決に向けて大学教育に活路を見いだす

1988年、留学先のドイツから再度東大第一外科に戻った後、大きな決断をする。国立療養所東京病院(現・独立行政法人国立病院機構東京病院)外科医長に転身することにしたのだ。

「当時の東大の跡見裕医局長からも『早まるな』と慰留されたのですが、やはり大学の附属病院では診療経験が限られる。外科医としてもっとトータルに患者さんの治療に当たれる環境に移りたかったのです」

国立療養所東京病院は、昭和初期からわが国における結核治療の中心的な役割を果たしてきたが、1985年に消化器外科を新設。その3代目外科医長となった永井は就任早々、医師やスタッフに対して、「私はここに骨を埋める」と宣言した。過去2代の外科医長が短期間のうちに他の医療機関に移っていたことから、自らの本気度をスタッフたちに示したかったのだ。

この東京病院時代は、新しい術式にも果敢に挑戦した。その一つが、炭酸ガスで腹部を膨らます「気腹法」を用いた「腹腔鏡手術」。東大でも実施していない術式で話題になった。さらにその直後には、腹部の皮膚をワイヤーでつり上げる「つり上げ式」の術式も試みた。外科医として充実した日々を送っていた。

しかし、1990年の夏になって、東京大学の当時の医局長から、自治医大の消化器・一般外科に移るよう要請がくる。膵臓の手術ができる人材が必要とのことだった。東京病院のスタッフに「骨を埋める」と宣言した手前、迷いに迷ったが、その申し出を受けることにした。これまで一外科医として、ひたすら知識を増やし、自らの腕を磨いてきたが、次第に日本の医療全体に関心を示すようになっていたことも大きかった。

当時から医療費、医療過誤など、医療を取り巻くさまざまな問題が噴出していました。その解決のためには、医療者への教育から始めるしかない。自治医大で1年に100人の医学生を教育し、その100人が100人の市民を啓発すれば1万人になる。その教えられた市民がまた100人に伝えれば100万人になる。そういう息の長い国民運動を展開するための種を蒔きたい。そう考え、後ろ髪をひかれる思いで、東京病院を後にしたのです」

迷ったときは、外に出ろ

自治医大に移ると、永井は胆膵手術や腹腔鏡手術に積極的に取り組みながら、医療教育に力を入れる。

「高齢化が進む中、多くの患者さんはさまざまな領域にわたる、複数の疾患を抱えています。もはや、胃がんの手術だけできれば良いという時代ではありません。さまざまな疾病を総合的に診られる外科医を育てたいと考えました」

さらに、附属病院に立ち上げられた「経費節約委員会」委員長や「病院機能改革検討委員会」委員長に就任。医療費や病院経営についての知見を広げていった。また、1999年に消化器・一般外科主任教授に就任してからは、自らの目指す医療教育を進めていった。「外科医は患者さんを総合的に診なければいけない」との元来の信念の下、外科に入局した若手医師には、3か月間、内科の研修を課した。現在の新医師臨床研修制度ができるはるか前のことである。

その一方で、次第に焦りを感じるようになった。自分が進めようとしていた日本の医療を変えるための大学教育に、限界を感じ始めていたのだ。

「医療費、さらには医療訴訟と、日本の医療を取り巻く問題はますます深刻化しているのに、効果的な教育の展開を図れない。もっとほかの大学も巻き込まなければいけないし、何よりも市民に向けた教育を直接に展開していく必要もある。そこで、60歳で定年退職した後には、それに専念しようと考えるようになりました」

2005年の12月、定年まであと3年あまりという時期、永井の人生を大きく変える出来事が起きる。勤務する自治医大附属病院で受けたPETによる癌検査で肺癌が疑われたのである。追加の検査をすると、リンパ節への転移の疑いもあることが分かった。このとき、自分にはやり残したことがあることを痛感したという。この病期の肺癌ならば5年生存率50%。手術が終われば大学を辞めて、残りの人生を、学校や市民を対象とした医療教育に取り組むことを決意して、同月21日手術に臨んだ。

「手術から目が覚めたときに、掛けられた一言が『先生、腫瘍は良性でしたよ』。つまり癌じゃなかったのですよ。それで一気に気が抜けちゃって。結局、大学も辞めずに、しばらく無力感、脱力感の中で過ごしていました」

永井が茨城県立中央病院長として、同院の経営の立て直しを要請されたのは、翌年の6月のことであった。依頼に訪れたのは、東大医学部の先輩で、茨城県病院局の初代病院事業管理者として、病院改革を進めていた古田直樹医師だった。

このときは、自治医大附属病院の副院長という重責を担っていることを理由に断るが、古田医師もあきらめない。事あるごとに要請し続けるが、首を縦に振らなかった。

その気持ちを覆したのは自治医大に赴任以来、ともに仕事をしてきた元看護師長の存在だった。末期がんを患った彼女の病室を何度も見舞いに訪れた。あるとき、余命いくばくもない彼女が「悔しい。やりたいことがいっぱいあったのに」と声を振り絞った姿を目の当たりにし、永井の心は動いた。自分にとって、やり残したことといえば、市民への医療教育である。人間、いつ最期を迎えるか分からない。それなのに、今、取り組まないで良いのか。

古田医師を通じて、県民、特に次代を担う若者に対する医療教育の実施に、茨城県は協力してくれるのか確認すると、協力するとの答えが返ってきた。いよいよ迷いが深まっていく。しかし、迷っている自分を認識した途端、古田医師の申し出を受け入れることを決めた。

永井には大切にしている言葉がある。それは「迷ったときは、前に出ろ」というプロ野球の名監督・星野仙一の言葉だ。迷ったときにこそ前進する。身の振り方でいえば「外に出る」。もしそれが失敗しても、自分が決めたことだからあきらめがつく。しかし、とどまったら必ず後悔する。だから、自身も迷ったときは必ず外に出ることを選択してきたし、後輩の医師から相談されたときも常にそうアドバイスしてきた。だからこのときも外に出る決心をしたのである。

今後は医療教育のパイオニアに

永井には病院経営における固い信念があった。それは「良い医療をしていれば、結果は絶対についてくる」。同時に、「現場の負担になるような改革をするべきではない」との思いも持っていた。実は赴任前に、同院では人件費抑制のために多くの看護師を解雇するとともに賃金カットも進めた。それが現場スタッフに多大な負荷をかけるとともに、モチベーションを奪っていた。そのことを見て取り、逆に看護師の数を増やすことを宣言。入院患者7人に対して、常時看護師1人以上を配置する「7対1の看護配置」を目指したのである。

同時に入院患者の医療費については、診療行為ごとに計算する「出来高払い」方式から、診断群分類点数表に基づいた診療行為により医療費を計算する「定額払い(DPC)」方式の導入も念頭に置いて、病院機能の改善に努めた。

「私が院長に就任してからも何度か経営危機を迎えたことは事実ですが、もともと当院の経営が悪化したのは、病院施設を新設するために行った高利率の借金が原因。その赤字体質に対してなんら手を打たず、現場に負担を掛けるやり方はフェアではない。そこで、われわれは病院自体も改革を行い、経営の健全化に努める一方で、県や議員の先生を説得して、バブル時代の債務返済の繰り延べを認めてもらいました」

結果的に、この改革は奏功し、医療の質の向上と経営の健全化の両立を達成。2010年度以降、黒字化を続けているほか、2012年の診療報酬改定でDPC第2群病院の指定も受けた。茨城県内でも3病院のみの指定であり、いかに同院の病院機能が向上しているかを表している。

加えて、地域の中核を担う総合病院として、あらゆる疾病や患者さんに対応できる「死角のない医療」を目指すべきとの考えから、全診療科の設置、専門医の確保はもとより、元来の方針である総合的に診療できる医師の養成にも尽力。永井自身が常に医療現場に足を運び、自ら手術を担当するのも、後進の指導の一環でもある。

そして、こうした病院経営の活動と並行して、院長就任以来力を入れてきたのが、地元の子どもたちの医療教育である。県内の小学生と保護者を対象に、院内の手術室等、通常では見ることができない各施設を案内する「キッズくらぶ・イン・ホスピタル」、地域の友部小学校5年生の全クラスを対象にした「いのちの教育」の他、公立小・中・高校の保健体育教諭の研修会も実施している。

今後の展望について尋ねると、きっぱりと次のように話してくれた。「病院経営も軌道に乗りましたから、私の責任は十分に果たしたとの自負がある。これからも後進の指導を兼ねて、院内で外科医としての診療を続けるつもりですが、院長の職はいずれ辞するつもり。今後はその余った時間を使って、医療教育を本格的に行う体制を整えたい。高齢化率は2055年に40%を超えて以降、2100年までその水準を下回らないと試算される中で、どのように日本の医療を組み立てていくか。これはもう医療提供側だけでなく、国民全員が自分たちの問題として考えなければいけない問題です。茨城県は医療過疎の最先端。日本の近未来を真っ先に体験しますので、パイオニアとして何かを示せるはずです。教育委員会なども巻き込みながら、そのための活動に力を入れていきたいと考えています」

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