野原 裕 (獨協医科大学病院院長)
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野原 裕 (獨協医科大学病院院長)

「背骨の達人」が挑む
地域医療改善のナビゲーター役

北海道の大地で育ち、医学部に進んだ青年。
多感な時期を異能の友たちに囲まれて過ごした彼は、やがて整形外科医となり脊椎疾患の診療で名をはせ、「背骨 のスペシャリスト」として誰しもが認める存在となる。
野原裕、課せられた新しいミッションは1000床を超える大病院を率いての地域医療の改善。
温厚な笑顔の中に、凛とした決意が窺えた。

プロフィール

野原 裕(のはら ゆたか)

経歴
  • 昭和23年 北海道恵庭市生まれ
  • 昭和48年 北海道大学医学部卒業、北大整形外科入局
  • 昭和59年 獨協医科大学越谷病院助教授
  • 平成 3年 同教授
  • 平成18年 獨協医科大学 整形外科主任教授
  • 平成23年 獨協医科大学病院院長
所属学会等
日本整形外科学会、日本脊椎脊髄病学会、日本側弯症学会、
国際脊椎学会(ISSCS)、北米側弯症学会(SRS)

野原 裕(のはら ゆたか)

医師への道を説き続けた祖母の存在

インタビュー中、窓の外で爆音が響く。ヘリがホバリングしながら着陸しようとしている。白い機体に青色でくっきりとDoctor-Heliの英文字が描かれている。ストレッチャーを押しながらスタッフが機体の周りに駆け寄ってくる。地域医療を担う獨協医科大学の救命救急の象徴でもあるドクターヘリだ。
栃木県下都賀郡壬生町、田園地帯に立地する獨協医科大学病院は、1974年(昭和49年)7月14日、当地に開院した。

現在の規模は、敷地総面積が5万3千197m²、病床数が1167床。診療科は内科、外科合わせて24科。在籍する医師(非常勤、レジデント、研修医含む)614名、看護師(准看護師含む)1065名、検査関連、薬剤師、事務スタッフなど677名という、規模も陣容も北関東屈指の総合病院である。

その大病院を率いるのが、「背骨の達人」と評された整形外科医、野原裕
である。野原は昭和23年、北海道恵庭市に生まれる。大自然の中、野球、スキーに熱中しながら伸び伸びと少年時代を過ごす。やがて、進路の選択を迫られる年頃となった。その選択に大きな影響を与えたのが祖母だった。

今を煌めく友たちとの邂逅

茫洋とした気持ちながらも医学の道に足を踏み出した野原は、北海道大学医学部に入学する。ここでのさまざまな友人たちとの出会いが医学への志を確固たるものにする契機となった。「匠の手」と評される脳神経外科の権威、上山博康(現・禎心会脳疾患研究所所長)もその一人である。

「上山君とは同期で親友です。今はお互い、忙しくて会う機会も少なくなりましたが、メールでのやりとりはしていますよ。大学1年のときからの付き合いですが、彼以外にも、ユニークなクラスメートとの出会いが、私に刺激を与えてくれました。もちろん、高校時代にも友人はいましたが、ちょっと付き合いの深さが違う。たとえば大学では普通に『お前ばかだね。なんでそんなこと言うんだ』と言い合える。辛辣ではあるけれど親しみと信頼を込めたコミュニケーションとでも言うのかなぁ。いい連中だなと思いました。要するに本音で、自分を素直にさらけ出せる人間関係を初めて築けたんですね。高校までは周囲に対して少し抑え気味だった私にとっては、とても新鮮で開放的であり、人生の中で大きな意味を持ったと思います」

その大学時代の友人たちとの付き合いの中で学んだことが、診療に活かされているという。
「コミュニケーションの形にはいろいろありますが、医師にも、その能力は欠かせない。患者さんが10人いるなら、それこそ十人十色です。生活水準もライフタイルもインテリジェンスもキャラクターも…。
ですから、最初のひとこと、ふたことで、相手を理解して、診断内容や治療法について、その人のレベルに合わせて説明することが大切です。専門的な表現では『さっぱりわからない』と言われるし、逆に噛み砕き過ぎて話すと『あの医者は俺をばかにしている』となってしまう。そういう洞察力は医者にとって大事な資質だと思います。それがその後の信頼関係の構築、スムーズな治療のためにも欠かせない。

だから初めて患者さんを診察するときは、少し、緊張しますね。どういう人なのか、見極めようという気持ちで」

整形外科医の道を選択した本当の理由

整形外科を志す動機にもなったセミプロ級のスキー。 整形外科を志す動機にもなったセミプロ級のスキー。

教養課程を終えて3年生になると、医学部へ進みやがて専門を選ぶ時期になる。野原自身、この頃は迷いがあった。内科なのか外科なのか、臨床なのか基礎研究か。
「もちろん、その頃は、私だけでなく友人たちも将来どんな医者になるか想像もついていない。私も含めて皆が迷っていました。医学の概要は分かっても、自分がどの分野に適性があるのかは分からない」 

友人たちが進路を決めて行く中で、野原も進路をしぼっていった。学生時代にスポーツに熱中していたことが整形外科領域を選ぶ決め手となった。中学生の時は、三年間、土日も野球をやっていたほどのスポーツ好き。大学時代もスキーにのめり込んだ。
「俺はスキー部に入るから、お前も入れって、仲間を増やしていくじゃない
ですか。競技スキーでは必ず怪我をする人がいる。勧誘した私としては、あ
る種の責任を感じるわけです。そこで整形外科へ連れて行くという流れができていたんですね。
 
5年生くらいのときですか、『僕は整形外科にする』と仲間に告げたら、みんなが異口同音に『お前にぴったりだと思うよ』と言ってくれました。自分が思ったことと、仲間の私に対するイメージが一緒で、なんだか嬉しかったですね」

ただ、研修医になって患者を実際に診たときに、想像していたものと大きく違ったという。
「当初、私は今でいうスポーツ整形をイメージして現場に入りました。もちろん、現実は私が思っていたより厳しく患者さんの苦しみも切実でした。それを目の当たりにして、診療を続けていくうちに徐々に引っ張り込まれてしまった。もちろん、当初は五里霧中です。でも症例を見て病気のことが少しずつ分かってくれば、興味も増してくる。

私は背骨を中心にさまざまな脊椎疾患の治療を続けてきましたが、臨床医になった当時は、背骨の曲がった患者さんをほとんど治せない時代でした。手術で少しは改善しますが、完治にはほど遠い。

この領域の進歩はその後10数年のうちに目を見張るような進歩を遂げている。2年、3年単位で、治らないと言われていた患者さんがどんどん治るようになってくる。そういった変化の時代に整形外科医として臨床にあたれたことは幸せだったのかもしれません。治療に携わる医師も手応えを感じてよりモチベーションが上がる、今、そういういいサイクルに入っていると思います」

転機で高まる「背骨の達人」の評価

整形外科の腰椎疾患の外科医として研鑽を続けていた野原に、最初の転機が訪れる。昭和59年獨協医大越谷病院に助教授として請われ、赴任することになったのだ。
「正直、北大に残りたいという気持ちのほうが強かった。ただ、東京行きに対して家内が全然、反対しない。こういう話って、だいたい奥さんが反対して消えることが多いのですが、私の場合は断る口実がなくなった(笑)。そこから獨協とのお付き合いが始まりました」

当時、関東の整形外科領域では、野原が専門とする「背骨」に関しては黎明期。まだ、北海道のほうがいろいろとトライしていることも多かったという。関東でもう一度、意地をみせてやろうという気持ちがあったことは想像に難くない。

野原は、獨協医大越谷病院で脊椎疾患の診療に熱意を持って数多くあたり、知見を深めていく。並行して評価も徐々に高まっていき、特に、脊柱側弯症の治療に関しては並ぶものなしと言われ、全国から救いの手を求めて患者が集まってくるほどの存在になる。

平成18年には獨協医科大学病院の整形外科主任教授に着任、後進の指導にも多忙な日々を送る毎日となる。
そして平成23年、獨協医科大学病院院長に就任、栃木県の地域医療の中核を担う拠点病院を率いていく立場になった。

獨協医科大学病院は開院以来、常に栃木県の医療の中核を担う病院として位置づけられてきた。
昭和49年に開設後、1990年(平成2年)には、栃木県指定機関として老人性痴呆疾患センター(現・認知症疾患医療センター)を開設、1997年(平成9年)には、総合周産期母子医療センターを開設した。外来患者数の1日平均は2000人を超える。

平成23年から広域連携運用されているドクターヘリ。 平成23年から広域連携運用されているドクターヘリ。

さらに、2002年(平成14年)4月には厚生労働省指定の救命救急センターを開設、平成22年1月から栃木県ドクターヘリの運航を開始し、23年からはドクターヘリ広域連携運用(茨城県・栃木県・群馬県)を開始、栃木県のみならず、近隣の一部地域の救命救急も担当する。

また、特殊領域に向けた医療施設の充実にも努めている。その代表的なものが『とちぎ子ども医療センター』。栃木県が策定した「栃木県小児医療整備構想」に基づき、新館の南側に小児医療の機能を集約し、小児医療に対応した専門医師の配置や高度な医療機器を設置している。

医師不足解消に向けたさまざまな取り組み

今、栃木県は恒常的な医師不足に陥っている。県内の医師不足に対応するために、獨協医科大学病院から、県内の中核病院を中心に常勤で延べ100人、非常勤で500人ほどの医師を派遣しているという。さらに女性医師が働きやすい環境づくりにも注力している。
「子どもを抱える女性医師は勤務が続けにくい状況があります。それを少しでも改善しようと平成23年4月に『女性医師支援センター』を発足させました。仕事と家庭、子育てのワークライフバランスを保っていけるよう支援するものです。フレックスタイムで働けるとか、休んでいる間に進歩した技術に追いつけるよう、トレーニングセンターをつくることなどに力を入れ始めたところです。今後、幼児保育も手がけていこうということで、教職員の寮の建設にも着手しています」

ICTを駆使した病診連携と健康意識の啓発

小児医療の機能を集約し小児医療に対応した専門医師を配置した『とちぎ子ども医療センター』。 小児医療の機能を集約し小児医療に対応した専門医師を配置した『とちぎ子ども医療センター』。

地域医療を担うということは、一つの病院だけで成就するものではない。
周辺、近隣の病院、診療所との病診連携も欠かせない。これに関して獨協医科大学病院では、ICTを活用した仕組みも視野に入れて取り組みを始めている。
「肺がん、胃がん、大腸がん、肝臓がん、乳がんという代表的な5つのがんについて、地域連携パスを用いた連携診療が始まりました。普段は近くのかかりつけの先生に診ていただき、何かあった時にはこちらへ来ていただく。私たちだけでなく、地域の医者全体で患者さんを手分けして見守っていくことが大切です。

こちらでは、より重篤な患者さんの診療に時間を振り分けていくことができる。この病診連携に効果を発揮するのがICTの活用です。患者さんをかかりつけ医に紹介した際に、どの病院でどのような治療を受けていたかをデータで地域の先生に伝えられる仕組みづくりも進んでいます」

今、野原が非常に関心を持っているのが、栃木県全体の健康意識の高揚だ。
平均寿命に関しては、栃木県は女性がワースト5、男性もワースト10にランクインしている。
「生活習慣病にも関係してきますが、やはり、食生活は大きく影響します。長野のような長寿県は、自治体と地域の病院が連携した、長年の健康指導の努力が効果を上げた顕著な例です。栃木はそういう意味ではまだ出遅れていますが、県も力を入れようとしているし、私たちもできる限りそれをサポートしていきます」

自身の専門とも関連して、野原には気になっている現象がある。それは高齢化の進行の中で、大腿骨の骨折の絶対数が増加していること。大学病院はもとよりすべての医療機関でそういう傾向が顕著だという。
「高齢者の骨折は、若年層の骨折とは異なります。高齢者が骨折して寝たきりになると、さまざまな部分に影響が出てきます。特に認知症の進行に与える影響は大きい。ですから手術したらすぐリハビリをするように努めるべきです。また歩けるようになることが、いろんな意味で脳の刺激、手の刺激につながって認知症防止に効果があります。

今、健康寿命という言葉があります。変な言い方だけれど、高齢者は死ぬ間際まで元気でいるのがいいんですよ、周囲も認知できないまま寝たきりで生き長らえるのではなく」

栃木県の地域医療の未来は獨協医科大学にかかっている

刺激に富む毎日だった北大医学部時代。 刺激に富む毎日だった北大医学部時代。
(写真左)

優しい笑顔で語り続ける野原の表情が、引き締まった瞬間があった。これからの獨協医科大学病院の展望について尋ねたときだ。「今、栃木県の医師会の会員の20数パーセントが獨協の卒業生です。獨協の卒業生が栃木県全体に、根を張って医療活動を続けている。それはある種、自然な流れだと思います。栃木県の地域医療の未来は、獨協医科大学と卒業生に大きく左右されるといっても過言ではないかもしれない。それだけに卒業生の皆さんには医師としての使命を自覚し、地域医療のためにどうあるべきかを、常に意識して日々の診療にあたってほしいと思います。その総合的なサポートの役割を担って獨協医科大学病院の運営を続けていくことが、私に課せられた役割だと思っています」

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